『夏目漱石全集〈8〉3 of 5』【こころ】〈先生の罪〉

夏目漱石
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加害者「先生」

さて、『こころ』における最大の悲劇の主人公は誰でしょう?

親友を裏切った傷を20年もの長きにわたって引きずりつづけた「先生」でしょうか?

それとも自らの弱さを前にして、苦悩の果てに自死を遂げた「K」でしょうか?

私は何といっても「奥さん」であると思います。

考えてもみましょう。好き好んで自分と結婚したクセに、毎日毎日面白くもない顔をしている。その理由を問いただしても「言ってもお前にはわからんよ」とでも言いたげなモゴモゴしたことを口にするばかり。どうやら自分との結婚がその原因らしいけれど、それならそれで何が悪いのか言ってくれればいいのに・・・。

こんな男との結婚生活、私が女性だったら絶対にイヤですね、はい。

優しさの底にあるもの

 人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、 ――これが先生であった。

かつての叔父と同じく、自分もまた薄汚い人間であると思い知った「先生」。自分は人を愛する資格などないと思い知った「先生」。それならば人と距離を置いて独りひっそりと生きていればよいものを、「奥さん」を道連れに引きこもり生活を続けている「先生」・・・。とはいえ、

 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆ど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」

と、「先生」は「奥さん」に対して人並みの情愛を持っているようです。いや恐らく世間並み以上に「奥さん」を気にかけながら円満な夫婦生活を送っているようです。しかし「奥さん」が最も欲している答えを決して与えることはありません。もっとも重要なこころの問題に関しては、いつも「奥さん」を蚊帳の外に置いている。これでは「奥さん」を大切にしていると言えるでしょうか?

 「もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気インキでも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈してください」

いったい「先生」にとって「奥さん」はどんな存在だったのでしょう? 少なくとも対等な立場にある人生の伴侶としては見ていなかったのは確かです。「先生」はまるでトロフィーを愛でるように「奥さん」を大切にしながらも、そのもっとも重要な部分でのけ者していたのです。そして「奥さん」がもっとも知りたかったであろうことを、どこの馬の骨とも知れぬ書生に過ぎない「私」に打ち明けて、自分には何も告げぬまま勝手に自殺してしまったのです。

「先生」は「奥さん」に”一雫の印気”を垂らすどころか、とてつもない傷を残して逝きました。

淋しさの檻

 そんな「先生」はこうも語っています。

 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります。こうした階段をだんだん経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起こります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。

”死んだ気で生きて行こうと決心しました。” これがこれからの人生を妻とともに生きて行こうという男の言葉でしょうか。「先生」の「奥さん」に対する優しささえも、所詮は罪悪感に発する罪滅ぼしでしかないのです。結局は自分のため・・・。「先生」の優しさは、しょせん「エゴイズム」の現われでしかないと見立てることも出来るのではないでしょうか?

 かつて「淋しい」がゆえに人を愛し、人を裏切り、自分を裏切ったことで淋しさの檻に閉じ込められた「先生」は、その道連れとして「奥さん」をも淋しさの檻に閉じ込めてしまったのではないでしょうか?

私たちはどうでしょうか? 私たちもまた「淋しい」ゆえに人を愛し、裏切り、そして他者を道連れにして淋しさの檻に囚われているのではないでしょうか?

私たちはいつも、「淋しさ」の犠牲者であると同時に「

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