『夏目漱石全集〈6〉』【門・彼岸過迄】〈記憶してください、私はこんなふうにして生きて行くのです〉

夏目漱石
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『門』

 二人はとかくして会堂の腰掛ベンチにもらず、寺院の門も潜らずに過ぎた。そうしてただ自然の恵から来る月日と云う緩和剤の力だけで、ようやく落ち着いた。時々遠くから不意に現れる訴えも、苦しみとか、恐れとかいう残酷の名を付けるには、あまり微かに、あまり薄く、あまりに肉体と慾得を離れ過ぎるようになった。必竟ずるに、彼らの信仰は、神を得なかったために、仏に逢わなかったため、互を目標として働らいた。互に抱き合って、丸い円を描き始めた。彼らの生活は淋しいなりに落ちついて来た。その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。

本作は一対の夫婦の穏やかな、心ほぐれる日常の描写に始まります。それはまるで淡い色彩の水彩画でも見ているような心地へ誘うものでありますが、物語が進むにつれてこの年齢に似ず老成した二人の背後に不気味に控える、ある暗い秘密が露わになってゆくという筋立ての物語であります。果たしてその暗い秘密とは何か。そしてそれは如何にしてこの二人に憑りつき、蝕むに至ったのか。

さて、私が初めて触れ、また大いにヤラれてしまった漱石作品は、『こころ』です。その興奮の元凶は一言で言ってしまえば、『人は生きるにしろ死ぬにしろ”宗教”が必要なのだ』という感慨、というか既に自分の中に萌していた思いの補強でした。 つまり『先生』は親友『K』を裏切ったことで生きるための宗教を失くして20年の歳月を泥濘の中に煩悶し、明治天皇の崩御と乃木希助殉死の報に死ぬための宗教を獲得したことで死を選び得たのではないか。というのが私の主な読感でありました。

神や仏その他諸々の名を持っていなくとも、結局人は自らの”宗教”に頼りながら、縋りながら、高々と掲げながら、本能と反射運動の泥沼に塗れて喘ぐ窮状から救われながら、生きているのだという感覚。 自ら生を選ぶにも死を選ぶにも結局は”宗教”を奉じなければいられないのだという思い。

その”名”は家族であろうと家庭であろうと仕事であろうと夢であろうとカネであろうと何であろうと構わない。それがかけがえのないものであると思い込めさえすれば良いのだ、と。

無宗教が常識的なスタンスともいえる現代日本人だって、結局は無自覚のうちに各々の”宗教”を奉じているのだ。しかしそれらの”宗教”は条件付きの宗教でしかない。家族や家庭を宗教とする人は家族がいなくなったり家庭が解消されたら、仕事を宗教とする人は職を失ったり働けない身体になってしまったら、夢を宗教とする人はそれに挫折またはそれを達成してしまったら、カネを宗教とする人はその虚しさを悟ってしまったら、その人は拠って立つべき宗教を喪失し、本能と反射の泥濘のなかで苦しみもがくことになるのではないか。人は泥濘の海を宗教という名の丸木舟に乗ってプカプカと浮かび流離っているのではないか。

頭脳の程度に関係なく突如として宗教に目覚める者、人生の晩年を迎えて急に宗教的態度を濃厚にする者たちは、こういった”条件付き宗教”を構成する”条件”を失った、または全うした人々なのではないかetc…。

さて、以上の文を根気よく読んで頂きで、それがなにか? と思われたそこのあなた。一応本作の感想と絡んでくるのでもう暫しの御辛抱。という経緯もあって、以降私は”宗教”というワードを補助線として物事を観る傾向が強くなったのでありました。

で、本作。

一応私だって本作のタイトルが禅寺の山門を指すものであるらしいというのは聞き知っていたけれど、ついに漱石作品の中に『宗教』という文字を見出したわけです。

 彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返す後からすぐ消えていった。攫んだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。

主人公は如何にして上記のような感慨に陥って行ったのでしょうか。

前述の通り、本作の主人公である宗助そうすけ御米およね夫妻は目立った諍いに陥ることも、互いに不満を抱くこともなく、まさに円満家庭を築き上げている様子です。なにやら彼らに真剣な頼みごとをしているらしい宗助の弟小六ころくに対する怠慢にはやや苛立たせられますが、それでも美しい家庭風景であることに変わりはないようです。しかし物語が進むにつれて明らかになるのは二人の馴れ初めに関する後ろ暗い過去。

実は宗助は学生時代の友人の恋人であった御米と恋に落ち、結果的に友人から彼女を奪い取って現在の幸福を得たようなのです。本文中にはその詳細な過程やその事件がもたらした波紋などについて語られることがなく曖昧な印象ですが、少なくともこれによって二人は既存の社会から放逐されたようなのであります。

 曝露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこにほのおに似た烙印やきいんを受けた。そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた

最も大きく、最も安心して身を任せるべき宗教=常識的社会からパージされてしまった二人は以後互いの紐帯の中に宗教を見出し、以て冒頭引用文の安穏に落ち着いたようなのです。それはもちろんただの安穏ではなかったでしょう。二人は身の回りに起こるあらゆる事々に自らへの”罰”を感じ取り、それらを以て自らの”罪”の意識に苛まれながらの安穏と幸福であったようです。

 彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪いた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らはむちうたれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒す甘い蜜の着いていることを悟ったのである。

二度と世間(宗教)に顔向けできぬ不義理を働いた二人の、これらが新たな宗教であったようです。しかしひっそりと幸福を舐めあっていた二人、いや、正確には宗助に、それらを一挙に破壊し得る出来事が出来します。 些細なことから交流を持ち始めた宗助宅の地主が、何の背景も知らないままかつて自分がその恋人を奪った友人安井との会合を催してしまったのです。それは飽く迄も冒険者アドヴェンチュアラーと言う名の山師として、満州や蒙古などで怪しげな事業をしているという地主の弟との会合であり、安井はその友人というだけの関係であるようです。

しかしこの一事は宗助の仮初めの幸福を打ち壊すに十分なものでした。自分が恋人を奪った安井。その後失意に沈み、日本を出奔し、外地の山師という如何わしい身分にまで身を落とした安井。かつての友人をそこまでに引きずり落としたのは紛れもない自分である。自分はその現実から逃避するためにこそ、すべてを棄て、すべてから棄てられ、愛する女との日陰生活を選んだのではなかったか。それが何の悪意もない運命の悪戯によって覆ろうとしている。宗助の宗教が覆ろうとしている・・・。

 すべての創口を癒合するものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。それが一昨日の晩にすっかり崩れたのである。

 (中略)その時の彼は他のことを考える余裕を失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作りえなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。

そして件の宗教の二字に行き着くわけであります。条件付き宗教に躓いた宗助は文字通りの宗教へと傾き、職場の知人の紹介を経てタイトルとなる禅寺の『門』へと至るのでした。それは単なる安易な、そして拙劣な、現実逃避の上塗りに過ぎません。完全に世を棄てて出家遁世しようというならまだしも職場を休んでほんの10日ほどの”修行”をしようというのだから安直極まりない。ここに至って物語は俄然喜劇の様相を帯び始めます。もちろんこのようなことで新たな宗教を会得できるはずもなく、宗助は虚しく山門を再び潜り、俗世へと帰り着くのでした。

 彼は前を眺めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

しかし運命は宗助に味方し、結局会合は実現せず、そのまま安井は外地へと旅立ちます。キリキリ舞いの挙げ句によくわからぬうちに自らの宗教を守り得た宗助は事情を知らぬ御米と再び日陰者の幸福な生活に戻ります。しかしその道行きは決して安全なものではないと、宗助は自らの宗教の頼りなさを思い知ったのでした。

 「本当にありがたいわね。ようやくのこと春になって」

 「うん、しかしまたじき冬になるよ」

本作は一般に前半部に展開する可憐な夫婦生活の描写の妙に定評があるそうですが、私には以上のような宗教の危機に陥った男の悲喜劇にばかり目が行った次第。 誰も聞いちゃあいまいが斯く言う私自身も過去の不義理を思い起こしては、二度と会いたくない”安井”たちの一人や二人、三人や四人を思い出すだに宗助にわが身を重ねて心苦しくなるのです。本作もまた『三四郎』『それから』に次いで、私にとっての『ダーター・ファブラ』なのであります。

『彼岸過迄』


本作の構成は「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白」かろうというコンセプトで執筆された作品ということであります。ちなみにタイトルは元日から彼岸過ぎ迄書くからということで『彼岸過迄』なのだそうであります。

本作は風呂の後』『停留所』『報告』『雨の降る日』『須永の話』『松本の話』『結末という7つの章立てで構成されており、特に後半2章が白眉となっております。「なるべく面白いものを」というコンセプト故か、物語序盤はどこか探偵小説染みたストーリー。高等教育を受けながらこれといった職に就くでもなく日々を過ごす敬太郎は”就職活動”の一環として、友人の叔父である勢力家田口の依頼を受けてある男の尾行調査を命じられます。その友人が章のタイトルにも見える須永であり、尾行の対象とされたのがまたもや須永には叔父にあたる松本なのであります。(ややこしいですが、須永にとって田口は母の妹の夫、松本は母の弟ということのようです)

さて、この少し乱歩小説を彷彿させる探偵シュミというか猟奇シュミな雰囲気の物語自体はこれといった深刻な事態を出来させるものではなく、一種の落とし話としてオチがつきます。それはそれとして面白いながら、これまでの漱石作品を読んだ身としてはなんだか物足りないものでした。少なくとも私には。 しかし後半2章に至って、その深い人格描写に目を見張らされたのでした。

 「市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲き込む性質である。だから一つ刺激を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰いこんで行く。(中略)」

とは松本の甥を評した言。 敬太郎の友人であり本作の実質上の主人公である須永市蔵は、後年の『こころ』の先生を思わせる、そんな男のようです。心の裡に深い屈託や僻みを抱え、まことに扱い難い男のようです。後半2章で展開されるのはそんな須永と、彼のいとこであり許嫁のような関係であった田口の娘千代子との痛ましい擦れ違いが主筋となっています。同じ松本から離れるために合い、合うために離れると評された二人の関係は主に須永の屈折によって悲しい幕切れを迎えるのでした。一体何が彼の心をこうも屈託させているのでしょう。

松本は須永をこうも評します。

 「この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを巻きださせるよりほかに仕方がない。外にある物を頭に運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美しいものか、優しいものか、を見出さなければならない」

須永の心には拠って立つべき確たる物がない、というのが私の印象。 ではその根源は何なのか。『須永の話』では冒頭で父の死に関するエピソードが綴られます。幼くして父を亡くした須永の母に対する慈愛が可憐なエピソードですが、臨終間際の父、そして父死去直後の母が発した一言が彼の心に深く根を下ろすのでした。読み手も暗に察するように、それは須永の母が実の母ではないという真相が後の『松本の話』で明かされます。どうもこれが彼の屈託、僻みの根源であるようです。

 両親ふたおやに対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、ふたりのこの時の言葉であるという感じがその後しだいしだいに強く明らかになって来た。なんの意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ暑い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった。

母と思っていた者が実の母ではなかった、ということ自体は敢えて言えば大した問題ではないと思うのです。ただ、大抵の人間にとって最初に拠って立つものとなる家族に対する漠然とした暗い疑念。それを意識しながらの青少年時代、それを実の母から打ち明けられるならばまだしも、親族とはいえ他人である松本から打ち明けられたという経緯。最も身近なものであるはずの宗教に対する昏い怖れが、須永の心にあらゆるものに対する疑念と僻みとを産み付けたのではないでしょうか。

母に対して素直に向き合うことのできなかった須永は千代子に対してもまた、素直に向き合うことができなかったのでしょう。 宗教に惑い、疑い、苦しむ須永は学生時代、自身と同じ性向を持つと見込む松本に対してその肚の裡を打ち明けます。なぜ自分は他者から拒絶されるのか、なぜ自分は他者を素直に受け容れることができないのか・・・。その顛末が『須永の話』の前日譚となる『松本の話』なのですが、そのやりとりはまるで信仰に惑う信者が神父に向ける痛切な叫びのようです。

「僕はあなたに云われない先から考えていたのです。おっしゃるまでもなく自分の事だから考えていたのです。誰も教えてくれ手がないから独りで考えていたのです。僕は毎日毎夜考えました。あまり考え過ぎて頭も身体も続かなくなるまで考えたのです。それでも分からないからあなたに聞いたのです。あなたは僕の叔父だと明言していらっしゃる。それで叔父だから他人より親切だと云われる。 しかし今の御言葉はあなたの口から出たにもかかわらず、他人よりも冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした」

「僕は僻んでいるんでしょうか。たしかに僻んでいるでしょう。あなたがおっしゃらないでも、よく知っているつもりです。僕は確かに僻んでいます。僕はあなたからそんな注意を受けないでも、よく知っています。僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。いいえ母でも、田口の叔母でも、あなたでも、みんなよくその訳を知っているのです。ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います」

こうして須永は彼を蝕み続けていた屈託の正体を知るに至るのですが、それは彼にとって新たなる苦痛の始まりでしかないのでした。

一連の物語を知った敬太郎は深い衝撃を受けながらも、当然実感など伴うわけもなくただ茫然としたようにこの”他人事”の余韻に浸るのでした。本作を読み終えた我々読者のように。

 そうして、大きな空を仰いで、彼の前に突如としてやんだように見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考えた。

さて、本作に続く長編小説は『行人』と『こころ』であり、これらは漱石の『後期三部作』とも呼ばれているそうであります。なにやら大きな文脈が見えてきた。

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