『夏目漱石全集〈7〉2 of 2』【満韓ところどころ・思い出す事など】〈思い出した事など〉

夏目漱石
SONY DSC

『満韓ところどころ』

本作は、読んでいるうちに煮詰まってしまいそうな『行人』、そしてそれ以前の『彼岸過迄』や『門』などと比べればホッとする、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を思わせる平易かつ諧謔に満ちた文章が心地良い作品であります。

内容は当時の南満州鉄道総裁の職にあった旧友中村是公の招きに応じて、当時の日本の”新天地”であった満州および朝鮮半島へのこれといった目的のない漠然とした旅路を綴った旅行記であるようです。巻末解説に拠れば明治42年9月2日から約50日をかけて大連→旅順→大連→熊岳城→営口→湯嶺子→奉天→撫順→ハルピン→長春→奉天→平壌→京城→仁川→開城と経巡って下関に帰還し、その模様を同10月21日~12月30日にかけて「朝日新聞」に掲載したものであるとのことです。しかし惜しいことには撫順到着の段階で打ち切りとなってしまったため尻切れトンボとなってしまっております。

さて、これまた解説に拠れば

 満鉄や新聞の期待したところは、新しく日本の権益を獲得した準領土に対する、紹介めいたものであったかも知れない。しかし漱石はその注文に応じるにはあまりにも個性が強すぎた。

とのことでありますが、さもありなん。本作が連載の運びに至った過程やその意図は私の知る所ではありませんが、本作はそのような政治臭とは縁のない漫遊記として読み通すことができるかと思います。確かに所々散見される中国および中国人等に対する侮蔑的な描写や呼称が現代っ子を戸惑わせ、それを以て彼の中国に対する差別感情の証左と言うことも出来そうではあります。

しかし例えば彼の他作品や彼と同時代の”常識”にも見られるような女性蔑視的なスタンスと同じく、これはもう時代的なものと言うほかないように思います。謂わば明治末に生きた日本人としての”体臭”のようなもので、そういった”臭い”も含めて当時の日本人にとってのこの”新天地”への思いを切り取った作品と言えるのではないでしょうか。ついでに『趣味の遺伝』で日露戦争勝利に沸く世相を冷たく眺めていた漱石センセイに安いナショナリズムはそぐわないという個人的な感傷も付記しておきます。

さて、とはいえ何よりもまず漫遊記として面白い本作のミソは異国情緒ある中国の風物と道中で関わる様々な旧友たちとのエピソード、というよりそれらを描く軽妙な筆致。「満鉄総裁」や「農学博士(?)」や「警視総長」などという錚々たる肩書の”旧友”たちも漱石一流の諧謔によって綺麗に上皮を剥かれて人間臭い素顔を露わにされ、特に終始すっとぼけた言行が匂い立つ農学博士(?)橋本佐五郎とのやりとりが笑いどころの一つとなっております。(なんで”?”なのかは本文を参照)

また大連にある豆油の精製・高粱酒の製造・陶器の製作などを研究する中央試験場を始めとする充実した各種設備に当時の日本の気概を見、日本の権益の下で働く中国人苦力クーリーたちの力強い描写に嘆息し、元従軍仕官に案内されて旅順周辺の日露戦跡を巡る凄絶な描写に慄然とし、と読みどころは盛り沢山。しかし前述の通り本作は撫順の炭坑に下り立ち、さあこれから坑内を見物・・・というところで幕切れとなっております。

 ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした。

殺生やなぁ・・・。と呟いたのは私だけではないでしょう。そしてこの次に漱石センセイが血反吐と共に書き綴った『思い出すことなど』へと続くのであります。本作では正直言ってコミカルなスパイスとして機能していた胃病が、遂にその残酷な牙を剥くのでした。

『思い出す事など』

「思い出すことなど」は平凡で低調な個人の病中における述懐と叙事に過ぎないが、その中にはこの陳腐ながら払底な趣が、珍しくだいぶ這入って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新しい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香りを懐かしみたいと思う。

さて、明治43年半ばに『門』を書き終えた夏目漱石は持病である胃病の療養のため入院し、その後転地療法として修善寺に赴きますが、そこで病状を悪化させて大吐血を起こし、「30分は死んでいた」とされるほどの危篤状態に陥ってしまいます。しかしどうにか持ち直した漱石はどうにか無事帰京し、翌年まで再入院と相成ったとのことです。

・・・って、まあそういったことは文学史や漱石センセイに詳しい方ならば私風情がどうのこうの言うまでもない知識であり、また文学史や漱石センセイ個人に対する思い入れがさほど無いという方にはどうでも良い事でしょう。本作はそのように興味のない人にとっては単なる「病気したおっちゃんの手記」となり兼ねないものであり、つい最近までソウセキのソの字も知らなかった私にもそうであって何の不思議もないところです。が、私には正直言って予想外に、本作の内容が異様な共鳴とともに染み込んできたのでした。

さぁ、ブンガクのブの字も解さぬ私のオミソの何処に何がそんなに応えたのか。それは本作に充ちる、ある感覚がとても懐かしく、愛おしいと思ったからであります。つまり「”病んだ”ことによって得た(得てしまった)心の平穏」の可憐さであります。

さて、これは聞かれもしない自分語り、かつ深刻な病に苦しむことを強いられた人と比較するのは失礼千万な話なのだけれど、私には種々の事情で自ら社会生活をドロップアウトしていた時期がありました。具体的には学生時代に生来の人嫌いを拗らせて不登校&引きこもりの合わせ技一本状態になったりしていたのだけれど、この時の心境がまさに、

 (中略)いやしくも塵事に堪え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜共に生存競争裏に立つ悪戦の人である。仏語で形容すれば絶えず火宅の苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。

 という状態から、

 ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれるこちらには一人前に働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑かな春がその間から湧いて出る。

という状態への変化となったのです。上記の”病気”というのを「不登校」だの「引きこもり」だの「自傷行為」だのというある種の人々が”ビョーキ”と言い習わす物に置き換えてもらえばよろしいかと。たかが学生風情になにが「生存競争裏に立つ」「火宅の苦」を味わうものかよと言う話ですが、まあ人がリアルに実感できる苦しみは所詮自分が経験する事だけですからそこんところはご容赦。当時の自分は無気力に支配され、人と交わることはおろか人を見ているだけでもムカムカと腹が立ち、「夢の中でさえいらいらしている」ような困った状態になったわけです。

が、ふと日の当たる道を踏み外して学校や人間関係その他諸々という「宗教」からドロップアウトしたことによって時に苦しみながらも不思議な心の平穏に恵まれたのでありました。肩の荷が下りたのですね、早い話が。

さて、随分と本書のレビューから懸け離れた身の上話になってきやがったとお嘆きの声もおありでしょうが、私は本作のなかに息づく、病に苦しみながらも一種の平穏に包まれた漱石センセイの姿に、かつての自分との奇妙な符合を感じたのでありました。

 血を吐いた余は土俵の上に仆れた相撲(=力士。筆者注)と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向けに寝て、わずかな呼吸をあえてしながら、怖い世間を遠くに見た。病気が床の周囲を屏風のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。

こちとらののらくら引きこもりデイズに比べて漱石センセイの胃病の苦しみは並みの物ではなかったでしょう。悪化とともに黒い血を吐き赤い血を吐き、しまいには800グラムもの大量の血を吐いて死の淵を彷徨うに至る様は凄絶の一句に尽きます。しかし日々弱りゆく心身と引き換えに怖い世間を遠くにし、それだけではなく自分を気遣い、自分の無事を祈ってくれる人々の温かみにも触れるという幸運にも触れたのでした。

 四十を越した男、自然に淘汰されんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうして、この幸福な考えをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓った。

文中で「余は好意の干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎこちなく感じた。」とも述べている漱石センセイは、この度の病によって掛け値なしの他者の善意に触れたことでその”ぎこちなさ”を少なからず和らげたようなのです。この生活がもっともっと長く続けば、もしかしたら小説家として成り立たなくなってしまうのではないかと思わせられるほど。なにせ社会に存在する自分という存在の”ぎこちなさ”こそが表現欲求の源ではないかと思うからです。

生活の重圧から解放されたことで自然な興から湧き出した詩や句、そして謝すべき人々への言葉。病床で脳裏に浮かべた様々の事・・・。本作を埋める言葉の数々は良く言えば多岐に渡り、悪く言えば雑多なものです。しかしかつての漱石作品『草枕』中の一句、小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでいるのが面白いんですという言葉が本作にもまた当て嵌まると思います。病に苦しむ漱石の苦痛に歪む顔の痛ましさと隣り合わせに、病と言う名の「免罪符」を胸に…などと言っては失礼だけど、奇妙なエアポケットで奇妙な心の平穏に浸る漱石センセイの、少し気の抜けた顔も見える気がするのです。

 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返しの大地にあまねき内にしんとして独り温もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉を見た。そうして日記に書いた。 ―――「人よりも空、語よりも黙。・・・肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」

というのが私のお気に入りの一節。漱石センセイには似合わぬ(失敬)晴朗な心持がしみじみと染み入ってきます。そしてこれは私にとっても、諸々の不安に悩まされながらも謳歌した、孤独で充ち足りていたあの頃の、”在りし日の歌”として響いてきちゃったりするのです。

 病の重かった時は、固よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変わって行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分かった。自白すれば雲と同じくかつ去りかつ来るわが脳裡の現象は、極めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、(中略)

生涯に一度か二度の大患などというのもおこがましいけれども、十代の真ん中を何をするでもなく空費したのだからこれ以上の無駄はない。あの時期に何かをしておけば何者かになれたかもしれないのにと言う自分もある。しかしああしていなければもっと悪くなっていたかもしれないんだからまぁ良かったぢゃないかと言う自分もある。

 逝く人に留まる人に来る雁

とは漱石が文中に遺した一句。様々な人が私の前から逝った。いや向こうからすれば逝ったのは私の方か。でもこっちから言わせてもらやぁ逝っちゃったのは向こうの方で…ってややこしいわ。「仏陀の教えを知らないなんて可哀そう」「イエスの教えを知らないなんて可哀そう」と、お互いに言い合ってりゃ世話ないさ。

とまぁ本書中の一文一文が様々な言い換えによって個人的な感傷を呼び起こすよすがとなるのであります。

ええ、ええ、わかってますとも。「大文豪センセイと我が身を引き合いに出すとはふてぇ野郎だ、表へ出ろぃ」という声があることは。でもまぁ漱石先生も癲癇持ちであったというドストエフスキー大先生と我が身を諧謔たっぷり引き合いに出したりしているのだし、大目に見て下さいな。

 ドストイェフスキーの享け得た境界は、生理上彼の病のまさに至らんとする予言である。生を半ばに薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。

 運命の擒縦きんしょう(=捕えたり放したりすること)を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
 それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。

ドストイェフスキーの享け得た境界は、生理上彼の病のまさに至らんとする予言である。生を半ばに薄めた漱石センセイの興致は、単に貧血の結果であったらしい。まっとうな人生行路を半ば放擲した余の興致は、単に偏屈の結果であったらしい。

運命の擒縦を感ずる点において、ドストイェフスキーと漱石センセイと余とは、ほとんど詩と散文とチラシの裏の落書きほどの相違がある。

それにもかかわらず、余はしばしば漱石センセイを想像してやまなかった。

とか戯れてみる。

 過去を一攫みにして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両つのものが互に纏綿して来た。(中略)――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の対照だけがはっきりと残るためだろうか。

思えば遠くへ来たもんだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました