『夏目漱石全集〈5〉』【三四郎・それから】〈すべて身に覚えのある痛みだろう?〉

夏目漱石
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本巻に収録されるのは『三四郎』と『それから』。ともに平易な文体が読み易く、殊に『虞美人草』などと比べれば格段の親しみ易さであります。しかし私にとっては本巻、とくに『三四郎』が最も読み始めるに際しての敷居が高かったのです。なぜなら本作を形容する言葉の一つに我が天敵ワードが用いられているからです。そう、皆様御存知、

 青 春 小 説 。

我が因果な人生行路を慮るに青春の二文字など豚に真珠猫に小判。馬の耳に念仏我が耳にアオハルと言っても過言ではないほど私はこの文字に対する拒否感というか、知ったこっちゃねぇ感がマジパネェのであります。さて、んなことを言って軒先をウロチョロしていても仕方あんめえと思い切って暖簾をくぐってみると、成程やっぱり私が『こころ』で惚れた漱石センセイ。青春などと言ったって一般に想像される清く正しく美しい、または仲間と一緒にキャッキャウフフな事々とは無縁な、若き日の「身に覚えのある痛み」が詰まっていたのでありました。よし、こういう「青春」ならこちとらも入って行けるぜ!と勇躍物語世界をひと泳ぎしてきた次第であります。

さてさて・・・

『三四郎』

熊本の高等学校を卒業した主人公小川三四郎は東京帝国大学に進学すべく上京を果たします。地元親元を離れ、明治の世の激動の総本山である東京での生活を送る三四郎ですが、存外に呑気な学生生活を送って行きます。「激動の明治」と言っても学生という「閑のある気楽な身分」という点ではこの人々も我々の時代と大差ないのかもしれません。読み手であるこちらも「はぁ、気楽なもんでよろしおすなぁ」と若干のやっかみを含んだ目で緩やかに追っていきますが、唐突に平手打ちを食わされるような描写にも出くわします。

彼らの生きるなんだか間の抜けた空気のすぐ隣であゝあゝ、もう少しの間だと断末魔の呟きを残して列車の前に身を投げ出して自ら命を絶つ者があります。自殺者がどういう人物なのか、そういった理由で死を選んだのか、その説明はありません。しかし親元からの仕送りに支えられ、郷里の先輩の庇護の下でゆとりある前途有望な学生生活を始めた三四郎の人生行路から少し道筋を離れたところには、「あゝあゝ、もう少しの間だ」が大きく口を広げている・・・。

 三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。(中略)―批評家である。―三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。

 自分が無自覚のうちに安楽な地位に安穏としていることを悟らされたとき、その地位が必ずしも当然のものではないと悟らされたとき、上記のような感慨に耽った覚えは誰にもあるかもしれない。人はこういう出来事をきっかけにして、世の中への恐怖から『低徊趣味』に魅了されるのかもしれない。もしか漱石センセイもそうだったか知ら、と余計な事を思ったりもします。

さて、本作には物語中に出現し、なにやら格別の意味を含んでいそうなワードが二つあります。迷える子ストレイ・シープダーター・ファブラです。『迷える子』はまぁわかります。でも『ダーター・ファブラ』ってなんぞや? 作中には大した説明がない。本書注釈によればこれはホラティウスの『風刺詩』の一節、Quid rides ? mutato nomine de te fabula narratur=「何をお前は笑うのか?名を入れ替えれば、ことはおまえについて語られているのに」と言う意味だそうな。そう、これは『私たちの物語』なのだ。明治の世という日本史上屈指の変化の時代を生きた経験を共有していなくても、自分が生まれ育った環境から離れて世間を見聞するようになった人間の歩みとして普遍的な意味を持つ物語なのでしょう。例えば・・・

 三四郎には三つの道が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝坊気ている。もっとも帰るに世話は入らない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。云わば立退き場のようなものである。(中略)

第二の世界のうちには、苔の生えた煉瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向こうの人の顔がよく分からないほどに広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。(中略)このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。(中略)

第三の世界は燦として春の如く盪いている。電燈がある、銀匙がある。笑語がある。泡立つ三鞭(シャンパン)の盃がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。(中略)

自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達を冀うべきはずのこの世界が却って自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでいる。三四郎にはこれが不思議であった。

という記述には、誰もが一度は社会への出始めに胸に抱いた岐路であり、感慨ではないでしょうか。

さて、本作の面白い登場人物としては三四郎の悪友とも言うべきお調子者のトラブルメーカー佐々木与次郎、そして与次郎の師であり漱石自身の分身染みた広田先生がいます。与次郎はその破天荒なキャラクターで物語の筋を動かす原動力となり、広田先生は当時「一等国」の名をほしいままにする日本の行く末を冷徹に見通したり、新旧世代がそれぞれに絡め取られている「偽善」と「露悪」の性癖への考察を繰り広げたりと、煙草の紫煙とともにその鼻の穴から発する「哲学の烟」は本作の読みどころの一つでしょう。そして本作のヒロインである里見美禰子

本作はこの美禰子と三四郎のロマンスが主軸なのですが、登場人物たちから「イプセン流の新しき女」と良くも悪くも評される美禰子は措いといて、三四郎は索引のついた人の心さえ見抜こうとなさらないと評される朴訥漢。なんせ本作冒頭、上京する列車に乗り合わせた人妻となし崩しに同じ旅館の一室で同じ布団に寝る羽目に陥るというシチュエーションにあっても倫理や道徳を慮ってというのではなく、まったく天然自然に「何もしない」ような、そして当の人妻からあなたはよっぽど度胸のない方ですねとツッコまれる男なのです。堅物とかそういうんでない、徹底的にニブい男なのです。

しかしその鈍さゆえに三四郎は罪の道行きを逃れます。美禰子には実は既に許嫁がおり、もしも美禰子の心の機微を敏感に察知してそれに応えていればどうなっていたことか。三四郎は鈍いが故になんだかよくわからないままに不貞行為に加担することを免れ、真っ当な道を歩み続けることができたのでした。

それはよかった。しかし、では許嫁がありながら三四郎に微妙なアプローチをかけていた美禰子って一体なんだったのだろう。ただの悪女か性悪女か? 今よりもっと自己主張する女性に対して偏見も風当たりも強かったであろう当時にあって、自らを『迷える子』になぞらえた美禰子は三四郎に対して同じ匂いを嗅ぎ取っていたのかもしれません。本作では「相方」足りえた三四郎が鈍物だからよかった。じゃあ「相方」足りえた相手が同じ程度に『迷える子』で、同じ程度に鋭敏な人間であったらどうか・・・。

『それから』


主人公は漱石を象徴する言葉『高等遊民』を絵に描いたような若旦那長井代助。その気楽な生活ぶりは日々の生活に汲々とせざるを得ない我々読み手一同をして『チクショウてめぇ爆発しろ!』と言わしめるに十分。なにせ生活は大物実業家であるらしい父からの仕送りで全て賄えるため働く必要はまったくなく、日々することといえば遊ぶことのみ。厄介事といえばやたらと見合いを迫られることだがこれも得意ののらりくらりとした言い逃れの技術を以て巧みにかわし続けている。齢30にして社会的にも家庭的にもなんらの責任を負おうともせず、そんな自分に対する負い目や今後の身の振り方に対する心配もとくにない。いや一点だけ、彼は自分の健康が今後もつつがなく持続し得るものかどうかだけが気がかりといえば気がかりですが、それはもう他に心配すべきことがないから強引にひねり出した「心配のタネ」のようで、別に深刻な持病を抱えているとかそういう切迫したものでもない。

とにかくこのようにまるで読者の反感を煽るために存在しているかのような男が主人公代助です。この男はテメェが働かないくせに生意気にも住まいには書生を置き、あまつさえ「君は勉強する気も働く気もないのかね?」などと「どの口が言ってんだ?」というお小言を垂れ、今では訳あって失業して貧窮しているかつての学友に対しても「ああはなりたくないものよ、やはり食うためにする労働は卑しいね」と内心で見下したような態度をとるのです。

とにかく読めば読むほどこの『高等遊民』君に対する反感が強まる一方なのです。ましてや物語の主筋は上記にある落魄の学友平岡の妻への代助の横恋慕にあるというのだからこれはもうどんな救いようのない与太者の物語かと思うところですが、さにあらず。読み続けて行けば行くほど、始めは反感しか抱けなかった代助に対する同情・共感の念が増して行き、最後には大いなる一体感とともにラストの「破滅」に身悶えするのです。ではこの金持ちニート野郎のどこにどう共感して行くのか。

まずこのお気楽野郎代助はなぜこのようなパーソナリティを持つに至ったのでしょう。そこには食うに困らぬ金の存在ももちろん大きかろうけれど、父の存在が最大因子のようです。父とくは旧体制の遺風を象徴するような人間。常に天下国家を思って行動し、常に誠実であれと説く父の言葉は一見素晴らしい理想に溢れていますが、その旧態依然たる自己満足的な教育は間違いなく代助に負の刻印を押し、父が説くような理想論に対する生理的な反発を植え付けたようです。

また、我々をして代助を軽侮させるのは結局自分たちが「真っ当な社会」と言う名の「宗教」の下で日々の暮らしに汲々としているからなのですが、この「真っ当な社会」なるものは実利を離れた「物語」にあっては何ほどの魅力もありはしません。「真っ当な社会」は生活のために仕方なく追従する物であり、その内実はどこまでも空疎で、出来ることならそんなものからは自由でありたい・・・。本音を言うと前述の代助への軽侮の念は、そんな醜くも生存のためには不可欠な「真っ当な社会」に生きざるを得ない人間としてのやっかみに過ぎないのではないかと思い当ります。

例えば前述の失業した友人平岡。彼は何も勤め先で不始末を仕出かして失職したわけではない、組織の不始末に際していわば上司の「トカゲのしっぽ」として辞職と相成り、おまけに借金まで背負い込んだようで、実に馬鹿らしいといえば馬鹿らしい事情。確かに代助はロクデナシ。かといって「真っ当な社会」に属する人々の中に特にこれといった人物が登場するわけでもない。旧き善き徳目の権化である父の得でさえ、物語が進むにつれて利他の仮面をかぶった利己主義者という顔が露わになって行く始末です。まったくどいつもこいつも碌なもんじゃねえと、我が事は華麗に棚に上げて、これら小市民たる人々への嫌悪の念は募って行きます。

もしかしたら一見ただのロクデナシにしか見えない代助は、この物語中で唯一自らの「宗教」に誠実な人間なのかもしれない。もちろんそれは食うに困らぬ経済力という土台ありきの、「坊ちゃんの誠実」に過ぎないけれども、物語に仮託して自らの願望に素直になる限り、この物語の中で唯一、と同時に多大な感情移入が可能な人物として、高等遊民長井代助の像が浮かび上がってきます。

 人間は熱誠をもって当たってしかるべきほどに、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別な幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠を衒って、己れを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云えまいが、よりよく人間を解剖した結果に外ならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味してみて、そのあまりに、狡黠ずるくって、不真面目で、たいていは虚偽を含んでいるのを知っているから、ついに熱誠な勢力をもってそれを遂行する気になれなかったのである。

醜いアヒルの子が実は美しい白鳥だったように、始めはただのロクデナシとしか映らなかった代助の姿は物語後半にあってはすっかり説得力を持った魅力的な人物として読者の心に訴えかけるように思います。主軸となる人妻三千代とのロマンスも惚れた腫れたという下世話なものではなく、むしろ同志愛と呼ぶべき様な、『三四郎』でいう迷える子ストレイ・シープ』どうしの感応と言いたいような趣を感じます。『三四郎』では三四郎の朴訥ゆえに成立しなかった禁断の修羅場が、本作においてはついに実現したようです。

しかしこの『迷える子』の感応は、「真っ当な社会」生活を送る以上は絶対に許されない「不信心行為」なのでありました。それに加えて代助は労働の経験さえない男。生命線である実家との義絶を覚悟せねばならない修羅場に三千代とともに飛び込んだところで彼の生活能力ではみすみす彼女を地獄へ引きずり込むことでしかないのでした。

 代助は死に至るまで彼女に対して責任を負うつもりであった。けれども相当の地位をもっている人の不実と、零落の極みに達した人の親切とは、結果において大した差異はないと今更ながら思われた。

愛する女をさえ守ることの覚束ない自らの無力を噛みしめる代助はしかし三千代の覚悟を聞いてついに「真っ当な社会」との孤独な「宗教戦争」に臨みます。

 彼は彼の頭の中に、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。彼はそれで満足であった。その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。三千代以外には、父も兄も社会も人間もことごとく敵であった。彼等は赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄の風に早く己を焼き尽くすのを、この上もない本望とした。

もちろんそんな戦いに勝利のあろうはずはありません。本作の終幕はこれまで読んだどの漱石作品よりも視覚的刺激に富み、忘れがたい印象を焼き付けます。すべてを失い街を彷徨する代助の目に飛び込んでくる様々な「赤」の色彩の洪水は、まるで異端者を焼き尽くさんと燃え盛る焚刑の炎を思わせます。

 「ああ動く。世の中が動く」

自らを責め苛むかのような「赤」に脳を焦げ付かせた代助の「それから」は、想像したくもない。それは心の中に「代助」を抱え込んでいながら「真っ当な社会」との宗教戦争に敗れて惨めな敗残の姿をさらしている、または敗北を恐れて追従の愛想笑いの下に彼を飼い殺しにしている自分自身の姿に他ならないと思うから。

この物語もまた、私にとっては『ダーター・ファブラ』なのだった。

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