『夏目漱石全集〈4〉』【虞美人草・鉱夫】〈渡る世間はナントカばかり〉

夏目漱石
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這う這うの体で読み進める夏目漱石全集〈4〉には『虞美人草』と『坑夫』が収録されております。さて。

『虞美人草』


これまで読んできた漱石作品のなかでも「美文調」といえば、『幻影の盾』『薤路行』『草枕』が挙げられます。いずれも肩の凝る難物な文章で、始めこそ「なんじゃあ、こりゃあ!」と某優作氏よろしく獅子吼したものの、どうにかこうにか噛み砕くうちに滲み出る旨味に舌鼓を打ったものでした。

だがしかし。

『幻影の盾』と『薤路行』はそう長くはなかった、『草枕』はある程度長かったが美文は一部だった。だから息切れはしてもバテることなく読了できた。しかし本作は約420頁近い結構な長編である。しかも今回は全文「あの調子」なのである。こりゃあ性根を据えて掛からねばならん・・・。

と覚悟したもののやっぱり本作は如何に美味くてもデカくてカタかった。大きな鰹節にかぶりついたものの歯が立たず、とりあえずペロペロ舐める猫のように何度も挫折し何度も読み直し、か細い綱の上を言葉の風に身体を持っていかれぬようにふらふらと渡っていくような読書体験の果てにやっとこさ読了である。さてさて。

物語は京の比叡山に登らんとする二人の男の描写に始まる。片方は細長い男、もう片方は四角い男である。細長い方は甲野さん、四角な方は宗近君。とくにこれといった目的もなく叡山に登り、保津川を下り、しかしこれといった名所旧跡を巡る目的も持たない、漫然とした旅を続けている。二人は縁続きであり同窓の友でもある。甲野さんは哲学を志し、やや厭世の感が強い。宗近君は外交官を志し、頗る実用的な男である。

甲野さんには妹がおり、藤尾という。これがクセモノである。作中では「我の女」とも呼ばれている。
甲野さんには父はないががあり、これがクセモノである。作中では「謎の女」とも呼ばれている。

藤尾がなぜ「我の女」なのか。溢れんばかりの自意識と自己愛に満ちた女だからである。
甲野さんの母がなぜ「謎の女」なのか。溢れんばかりの謎を腹中に蔵した回りくどい女だからである。

物語はこの二人の女の強いアクからそもそも始まる。

本作でもっとも印象深いのは藤尾である。藤尾は彼女自身が冒頭で読み上げるプルターク英雄伝の一節からも顕かなように、クレオパトラを彷彿させる虚栄と高慢に満ちた女である。許嫁のような間柄の宗近君に飽き足らず、優れた頭脳と豊かな詩情の持ち主である小野さんという博士の卵に懸想している。というよりも、呼べば擦り寄る飼い犬のように従順で御しやすい小野さんを愛玩している。小野さんのほうでもそんな藤尾に繋がれることを善しとし、その財産の高も相俟って結婚するつもりでいる。が、んなものは当人同士が良いと思っているならそれでいいはずである。

しかし小野さんには孤児に近い身の上から救い上げてくれた恩人とも言うべき孤堂先生が京都に住んでおり、その娘小夜子と結婚することが半ば決定している。それは今では東京に住む彼がいつも忘れようとしている昏く煩わしい過去である。

藤尾に負けず劣らず印象的なのは甲野さんの母である。彼女は藤尾の実母だが甲野さんには義理の母である。そのためゆくゆくはこの義理の子の世話を受けることを苦々しく思っている。ところが甲野さんのほうでは家の身代にも義理の母の世話にも関心がなく、好きな学問をするために嫁ももらわず家産も妹の藤尾に譲り、家を出る積りでいる。が、んなものもまた当人同士がそれでよいと思っているならそれでいいはずである。

しかし義理の母には甲野さんの気持ちは理解出来ない。実際にそうなってくれれば万々歳であるが、甲野さんの言葉を信用せず、あくまでもその本心を勘繰り、しかし世間体の悪くないように出て行ってもらえれば良いと腹中で散々案を巡らしている。「実の子」への盲目的な信頼と「義理の子」への盲目的な不信、そして世間体への気遣いだけが芯のような女である。

そうこうするうち甲野さんと宗近君は東京に帰ってきた。孤堂先生と小夜子も生活に窮して東京にやって来た。甲野さんは家と財産を捨てたい、義母は捨てて欲しいが世間体が気になる、藤尾は小野さんで遊んでいたい、小野さんは藤尾に繋がれていたいが孤堂先生への義理がある。

東京の一つの家を中心に、各々の因果がくるくると回り出す。さてさてさて。

何を隠そう私にとっては家がどうの財産がどうの結婚がどうのという話柄は「宗教」の領分であり、それらを中核とする物語は「宗教物語」なのであります。そんならどうせ文字通りの「ナントカ教」だとか「ナントカ神」だとかを扱ってくれる方が生臭くなくて読み易い。そういう性癖の私にとっては正直「知らんがな」という冷めたスタンスで眺めてしまう物語でありました。どうも駄目なんですね、こういうジャンル。

要所要所に『草枕』でも散見されたような哲学的な人生観や各人物を鋭く言い表す美麗巧妙な評言に出っくわしもするけれど、基本的には今までに読んだどの作品よりも肌に合わなさを感じながら読んだ次第。こりゃあ漱石作品最初のイマイチ作品との遭遇かなぁと思いつつ、考えた・・・。

本作品には事件解決後、甲野さんの日記という形で事実上の「あとがき」が記されている。また物語後半に恩人一家に対して不義理を働こうとする小野さんを諌める宗近君の言葉にも作者の「生の主張」が見える。さらに巻末あとがきによれば漱石は弟子の一人に対して、

 「最後に哲学をつける。この哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明するために全篇を書いているのである」

 と書簡を書き送っているという。さて、「哲学」ってなんだろう。甲野さんの日記に曰く、

 悲劇は喜劇より偉大である。(中略)忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。(中略)ふざけたるものが急に襟を正すから偉大なのである。(中着)人生の第一義は道義にありとの命題を樹立するが故に偉大なのである。

 問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織りか繻珍か、これも喜劇である。英語か独逸語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。

 死を忘るるものは贅沢になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとくことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣なしと思う。贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。

 道義に重を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。

 道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起こる。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外して、死の圏内に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫の陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆるべからざるを知る。

 宗近君の小野さんに曰く、

 「小野さん、真面目だよ。いいかね、人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合いがない。また相手にされてもつまるまい(中略)」

 「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自身力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。(中略)」

 またまた巻末解説者によるあとがきにも曰く、

 漱石がここで排斥し、否定しようとしているのは、我執であり、道義に欠けた行為、性質である。

という。

うーむ、ふざけた不真面目人間を以て任ずるこちとらにはなんとも耳が痛い。そして抹香臭い。とはいえ物語後半で宗近君からこれらの大義を押し立てられて見事「真人間」となった小野さんや藤尾の母、本作一の「悪女」の名をほしいままにした挙げ句に憤死(?)した藤尾たちの、「道義に欠けた不真面目な言動」に後ろ暗い共鳴を抱かない人はいないと思う。

藤尾と小野さんの間には真実の愛情はないと思う。少なくとも藤尾にとって小野さんは自分の承認欲求を満たしてくれる便利で都合の良い男であり、小野さんにとっても藤尾は自己の生活を満たしてくれる、オマケに美しい人である。しかし自己愛と自意識を肥大させ、欲得を離れた思考などほとんど不可能な現代っ子に、この二人を手放しで非難できるだろうか。

藤尾の母も御同様である。素直に人の言うことを受け入れられずにあれやこれやと邪推し憶測し、あるかないかもわからない世間様なる宗教に対して勝手に恐縮したり顔色を窺ったりして一人で煩悶している。この姿を単に「馬鹿みたいでやんのwww」と嗤っていられる現代っ子がいるだろうか。

なんだかもう某宗教の「このなかで罪なき者がこの者に石を投げよ」状態だけれど、時代と環境その他の文言を置き換えれば我々にも(主にみっともない方面で)十分身に積まされる要素のある事々ばかりである。こりゃあ甲野さんの哲学者的孤高の態度や宗近君の竹を割ったような剛毅さに共鳴している場合ではない。小野さんや藤尾のおっかさん共々、漱石センセイのお説教を拝聴するばかりである。再び甲野さんの日記に曰く、

 十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙しきが故に生と死との最大問題を閑却する。

藤尾や小野さんや藤尾の母がきりきり舞いしているのは喜劇であり、我々の大半がきりきり舞いしているのも、まぁ大概は喜劇ではなかろうか。こんなことしている間にいつ悲劇が踊り込んでくるかわからない。くわばらくわばら。

『坑夫』


世間に対する不義理から家を出奔し、所謂「ポン引き」の手引きによって炭坑で働くこととなった良家の子弟の心の推移を描く本作。

物凄く個人的な事情ながら主人公に強く寄り添いながら読み進めた作品でありまして、以前『倫敦塔』のレビューでも触れたとおり、私には「マトモな生活」と「マトモでない生活」のあわいを行きつ戻りつ放浪モドキした変な時期がありまして、あれほど文学的ではないとはいえ冒頭の主人公のような感慨を味わいつつ一晩中歩き通しに歩いたりなんかした記憶と少し被るものがあったわけです。いやぁこりゃあ自分も本作のポン引き「長蔵さん」に出会っていたらあの先どんな道を歩んでいたか分からんなぁとごく個人的な回想に浸ってみたりする。

 この曇った世界が曇ったなりはびこって、定業の尽きるまで行く手を塞いでいてはたまらない。留まった片足を不安の念に駆られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ訳になる。不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、やむを得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埒が明くはずがない。生涯片づかない不安の中を歩いていくんだ。とてもの事に曇ったものが、いっそだんだん暗くなってくれればいい。暗くなった所をまた暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇になって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。そうなれば気楽なものだ。
 意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、と云って暗くもなってくれない。どこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片づかぬ不安が立て罩めている。これでは生甲斐がない、さればと云って死に切れない。何でも人のいない所へ行って、たった一人で住んでいたい。それが出来なければいっその事・・・

閑話休題、主人公の若者はどうやら義理と人情との板挟み ―まぁ要は恋愛問題のもつれ― に耐えかねて、「自滅への第一着」として家を逃亡かけおちした身である。自滅への第一着とはこれなんぞ?というそこのあなた、こういうことである。

 逃亡(かけおち)をしてもこの関係を忘れることは出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分からないと考えた。たとい煩悶が逃亡につき纏って来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡ちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその第一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時徐に自滅の計を廻らしても遅くはない。それでも駄目ならきっと自滅して見せる。

甘いっちゃ甘い。っていうか19歳のボンボン育ちだもの、甘いのは当たり前であります。そんな「マトモ」と「マトモでない」の境をふらついていた名もなき青年は、宛もない徘徊の途上で炭坑に人手の周旋をしていると思しき「ポン引き」長蔵さんに声を掛けられ、その怪しさを十分承知の上でその後について行き、炭坑の想像を絶する環境、とくに半獣半人染みた人間たちの獰猛さに辟易しながらもそこでの労働を決意するのだったが・・・。

さて、本作は漱石のもとに話の「ネタ」を持ちこんだある青年の体験談に基づいて書かれたものであり、それがどの程度のディテールを持った話だったのか、そして漱石自身が炭坑生活についてどれぐらい取材したものなのか、というか作中の描写が当時の実相にどれほど忠実であるのかまでは私は知らないけれど、その臨場感のある筆致には流石の思い。併録の『虞美人草』の流麗華麗な世界とは正反対の、暗く淀んで薄汚れた洞穴の世界が眼前に迫ります。

が、私が共感しつつ読み進めたのは主人公の心の動きの方。巻末解説によれば

 その心理も行動も、意識の生起と連続としてのみあつかわれており、彼の決意を促した具体的な事情ははっきりしていない。彼のような心情は相当にせっぱつまったものであるべきだが、その自己批評と解剖に関するかぎりは、切迫したけはいが見えず、どこかに評者のいう低徊趣味がある。つまり行動に出るに至る経緯や動機づけを分析し解釈することに専念したための説明過多が、作品としてなまなましさを殺いでいる。それに、飢えと寒さになやみ、死に直面する危険を冒している「坑夫」の生活の描写としては、いかにも悠長で、不自然であって、つくりものという観をまぬがれない。

ということであるが、私としては人間の内面のあてにならなさ、不確かさに関する洞察のほうに共感して読み進めた。「坑夫」としての生活は飽く迄もそのための舞台装置でしかないのではないかと思う次第。または獰悪な人間たちに囲まれながら人の尻を追ってついて行くしかない、世間生活の暗喩ではないか、とも。

 近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もの性格がこうだの、ああだのと分かったような事を云っているが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがっているんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏まったものはありゃしない。

 世間には大変利口な人物でありながら、全く人間の心を解していないものがだいぶんある。心は固形体だから、去年も今年も虫さえ食わなければ大抵同じもんだろうぐらいに考えているには弱らせられる。そうして、そう云う呑気な料簡で、人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにして見せるのと騒いでいるから驚いちまう。水だって流れりゃ返って来やしない。ぐずぐずしてりゃ蒸発しちまう。

 夏になっても冬の心を忘れずに、ぶるぶる悸えていろったって出来ない相談である。病気で熱の出た時、牛肉を食わなかったから、もう生涯ロースの鍋へ箸をつけちゃならんぞと云う命令はどんな御大名だって無理だ。喉元過ぐれば熱さを忘れると云って、よく、忘れては怪しからんように持ち掛けてくるが、あれは忘れる方が当たり前で、忘れない方が嘘である。

とまあ、こういう式に人間の不確かさ、頼りなさを滔々と述べ立てる。なんだか俗物蠢く社会を痛快に蹴っ飛ばした『坊ちゃん』を思い起こしたりする。もしかしたら本作は一般世間を炭坑に置き換えた、少々陰惨な気配の濃い『坊ちゃん』なのかもしれないなと思ったり。『坊ちゃん』での坊ちゃんは終幕でそんな社会の尻を蹴っ飛ばしたけれど、本作での坊ちゃんはそんなことはしない、というかできない。

『坊ちゃん』での坊ちゃんは(さっきから同じ文言の繰り返しで恐縮だけれど)は教員という相応の社会的地位があってコミュニティの一員として相応の地位があるが、本作での坊ちゃんはなんの技能も教育もない、炭坑という巨大な組織を形作る一万人は下らない膨大な歯車の一つでしかない。『坊ちゃん』流の痛快さを発揮していては”スノコ”の底へぶち込まれて”自滅”に到着しちゃうのみである。

主人公はなんだかんだの果てに炭坑での労働を決意するも気管支炎に罹っていることを診断され不適格と相成る。で、頼み込んで割り振られた仕事は飯場の帳簿係。『坑夫』とか銘打っといて全然坑夫じゃねーじゃん! あ、失礼。 しかもたった5ヶ月で故郷の東京に戻ったようである。うーむ、なんとも締まらない、パッとしない。しかしこのだらしなさというか、煮え切らなさというか、半端者な感じがわが身に引き換えて嫌にリアルで身に染みてしまったりする。

 自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

 ってアンタ坑夫やってないじゃん。ったくこの坊ちゃんめ。

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