『夏目漱石全集〈7〉1 of 2』【行人】〈背教者かく語りき〉

夏目漱石
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兄は学者であった、また見識家であった。その上詩人らしい純粋な気質を持って生まれた好い男であった。けれども長男だけにどこかわがままなところを具えていた。自分から云うと、普通の長男よりは、だいぶ甘やかされて育ったとしか見えなかった。自分ばかりではない、母や嫂に対しても、機嫌の好い時は馬鹿に好いが、いったん旋毛が曲り出すと、幾日でも苦い顔をして、わざと口を利かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変わったように、たいていな事があっても滅多に紳士な態度を崩さない、円満な好侶伴であった。だから彼の朋友はことごとく彼を穏やかな好い人物だと信じていた。

以上は本書の語り手である長野二郎が、その兄にして実質上の主人公一郎を評した言葉であります。そしてこの評言から”学者”だの”見識家”だの”詩人らしい純粋な気質”だのを抜き取れば、私の似姿がヌーッと出現するのであります。

いままで何度他人様からこの手の言葉を聞かされたことだろう。「裏表が激しい」だの「上辺はいい人そうなのに」だの「釣った魚に餌やらないタイプだよね」だの、こういう風に言われちゃうパーソナリティの人間の一人として言わせてもらえば、これはひとえに”他者との適切な距離感”の違いに端を発していると思うのです。

例えば人間の視力には近視や遠視、弱視や盲目というのがあります。人によっては近くの物は見えるが遠くのものは見えにくい、またはその逆。或は見えないわけではないが視力そのものが弱いので生活するにあまり視力を頼らない、もしくは生まれついての盲目なのでそもそも物を見るという感覚が解らないという人がいますね。それと同じく、他者への”視力”を発揮するための適切な距離というものがあると思うのです。

ある人は”自分”の延長線上にある近しい人には適切な対応ができるが、”自分”から遠い人には冷淡である。

ある人は”自分”を剥き出しにせずに済む遠い人には適切な対応ができるが、剥き出しの”自分”を見せねばならない、また剥き出しの姿を見ねばならない近しい人間にはバランスを欠いた対応をしがちである。

ある人は誰に対しても適切な対応をすることが難しい。

ある人はそもそも他者に対して適切な対応をする必要や意味を理解出来ないし、そもそもそんなことをするという概念さえ持たないかもしれない。

視力に問題のない人間は少なくないかもしれないけれど、バランス感覚に問題のない人間というのはそうはお目にかかれないだろうから、多くの人は上記のパターンのどれかに当てはまるんじゃなかろうかと思う今日この頃、私はきっと紛うことなく二番目の人格の持ち主であろうと思う。そして一郎さんも。

さて、視力には先天的な障害もあれば後天的な変動もあるでしょう。病気や怪我や加齢にゲームのし過ぎやPC画面の見過ぎetc…それと同じく人の人への距離感は先天的な性向に加えて後天的な要因で変動することがあるでしょう。例えば何かしら強烈な経験や体験、擦り込まれた教育や生活環境などなどなど・・・。

もしかしたらいわゆる「近代人の孤独」とは、これまでにないほど新しい価値観が到来し、これまでにないほど新しい教育を受け、周囲一般の人々とは異なる「視力」を獲得してしまったが故の”視界のボヤケ”の苦しみに起因するものなのかもしれないと思ったりする。別にそういう視力の持ち主のほうが高尚だとか、周囲の人々より抽んでているとか、そういう中二病みたような安い優劣論を語るのではない。単純に「違ってしまった」というのである。

一郎さんの孤独は、様々な形で周囲の人々とは違った視力を、私が濫用している言葉を使えば「宗教」を獲得してしまった、もしくは周囲と異なる視力を持ったが故に周囲が当然のモノとして受け容れている「宗教」に対する不信感だけを獲得してしまった人間全般に言える孤独ではないか。本作の主人公一郎さんもまた、私にとってはとても身近な匂いのするアニキのようです。

死ぬか。気が違うか。宗教に入るか。

私には本作のキーフレーズであるこの一句は、恐らく一般的な解釈とはまた違った響きをもって聞こえる。そもそもおよそこの世に「宗教」に入っていない人間などいないと思っているからである。

本作は【友達】【兄】【帰ってから】【塵労】の四つの章から成っておりまして、それぞれそのまま本作の語り部二郎の「友達」三沢のこと、「兄」一郎のこと、一郎からのとある依頼に端を発する事件から「帰ってから」のこと、そして一郎の、そして彼を取り巻く家族たちを取り囲む「塵労」のことが主題となっているようです。そうそう、「塵労」とは「世俗社会における煩わしい苦労。煩悩」を指す仏教用語だそうであります。さてさて・・・。

第一章:「友達」

長野二郎は友人三沢との旅行計画を実行するために大阪へ赴き、母の遠縁にあたる岡田夫妻の宅に身を寄せます。未だ電話等連絡手段の乏しい当時、彼の家を互いの待ち合わせ場所としていたのです。しかし”数日遅れるかもしれない”との便りを寄越したきり三沢はその姿を現しません。流石に痺れを切らした二郎ですが、そんな彼の許に新たな便りが届きます。以前より胃腸を病んでいた三沢は二郎と落ち会おうとする直前、再び胃を病んで入院したというのでした・・・。

本章の主題となるのは三沢の人間模様であると思います。来阪早々友人たちの接待攻めにあって胃を悪くした三沢ですが、その際一人の女を”道連れ”にしていたのです。自分と同じく胃を病んでいるであろう芸者の妓に半ば無理に酒を進め、自らも無謀なほどに酒を呑み、ともに入院と相成ったのであります。いったい何の必要があってそんな無茶をし、また赤の他人である芸妓を巻き添えにしたのか。難詰する二郎に対して三沢は答えます。

 「知らないんだ。向うは僕の身体を知らないし、僕はまたあの女の身体を知らないんだ。周囲にいるものはまた我々二人の身体を知らないんだ。そればかりじゃない、僕もあの女も自分で自分の身体が分からなかったんだ。その上僕は自分の胃の腑が忌々しくってたまらなかった。それで酒の力で一つ圧倒してやろうと試みたのだ。あの女もことによると、そうかもしれない」

しかしそれにしても三沢はなぜ「あの女」を道連れにしたのでしょう。それには彼の過去に存在した、ある「娘さん」の存在が関係しているようです。

 「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ」

その「娘さん」は結婚後して間もなく夫の不人情から離婚となり、三沢の父が仲人をした縁でしばらく三沢家で生活をしていたといいます。そして彼女は不幸な結婚生活を原因として心を病んでおり、三沢が外出する毎に早く帰ってきてちょうだいねと懇願するのでした。果たしてそれは三沢を想ってのことなのか、はたまたかつての夫に言うことのできなかった言葉を、精神の箍が緩んだをきっかけとして、偶然目の前にいた妙齢の男性である三沢に言ったに過ぎないものなのか・・・。

はじめ三沢は世間体を慮って迷惑に思いながらも、徐々に彼女に情を移して行きます。それは一口に”恋愛”と言ってしまうには余りにも淡い色彩の感情のようですが、なんにせよ彼女に対する哀憐の情に囚われて行くのでした。果たして彼女の真意は?彼女は自分を慕っていたのか?それとも夫を思わせる男であれば誰でも良かったのか?その言葉は彼女の誠心から出たものなのか?それとも単に迷妄した精神から流れ出したものに過ぎないのか・・・?

 「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」

三沢の身勝手かつ自暴自棄な行動の裏には、測りようのない他者の心を測ろうとする、そして愚かに独り相撲を取ることしかできないでいる、虚しくも哀しい人間の業が控えていたようです。ここで物語が終わるなら、本作は愚かしく哀しい人間の心情を描いた小品で終わるのですが、本章はまだまだほんの序章に過ぎません。

三沢と”娘さん”、そして”あの女”は所詮他人同士の間柄でしかありません。遠い距離関係にある他者に対してならば好き勝手に感情移入し、好き勝手に解決を見出すこともできるかもしれません。しかしこれが近い距離にある、家族や伴侶であったらどうなのか。関係が遠いが故の視覚のボヤケが許されず、良くも悪くも明瞭に見渡せる間柄の他者への心を測りかねるようになったとき、人は儚い小品で表現するだけでは済まない、終わりなき苦しみに悶えることになるのではないか・・・。その残酷な掘り下げが、次章からの「兄」から行われているように思えます。

第二章:「兄」

「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」

本作の事実上の主人公がついに登場します。実は二郎が大阪へやって来たのは三沢との旅行のためのみならず、自家の使用人であるお貞さんの結婚相手の下見という任務を帯びたものでもあったのでした。本章では半ばはその結婚話を詰めるため、もう半ばは関西観光のため、二郎の母と兄一郎、その妻なおが来阪します。どうやらこの兄が一家の曲者らしく、長男として大事に育てられ、高い教育を受けたがために、自意識と自尊心のたいそう高いお兄様と相成ってしまったようです。冒頭に挙げた表現が弟二郎からみた兄の像。彼の前では実の母でさえ遠慮勝ちな物言いを強いられるようです。しかしこの厄介さん一郎の心の中は、上記のように他者、特に実の妻への不信感・・・と言っては悪い、心の測り難さを持て余して呻吟しているのでした。

「(中略)他の心なんて、いくら学問をしたって、研究をしたって、解りっこないだろうと僕は思うんです。(中略)いくら親しい親子だって兄弟だって、心と心はただ通じているような気持がするだけで、実際向うとこっちとは身体が離れている通り心も離れているんだからしようがないじゃありませんか」

二郎の反論は至極最もな常識の極み。しかしそんな正論で納得してしまえるようなら一郎さんも小説の主人公を務める資格がなく、読み手のこちとらも残り300頁近くを読み進める甲斐がないのであります。

「他の心は外から研究はできる。けれどもその心になって見る事はできない。そのくらいの事ならおれだって心得ているつもりだ」

「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。(中略)」

「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」

多くの人は他者の心の不確かさへの不安を、関係性という「宗教」によって補っているのではないか。親子だから、兄弟だから、夫だから、妻だから、友人だから、仲間だからetc…。しかしそれらが「宗教」であるならば、それに疑いを抱いてしまった時が年貢の納め時である。一度揺らいだ「信仰心」を再び確固としたものに立ち直らせるには生なかな言葉や行為では足りない。大抵は現状と異なる宗教に宗旨替えでもするよりほかになくなってしまうのではないだろうか?

一郎はあろうことか妻が弟次郎に惚れているのではないかと疑っているようです。なにを馬鹿な、と当然二郎は反駁します。一郎も流石に自分の突飛な考えに恥じ入るのでした。

しかし、しかし、しかし・・・。

「(中略)実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」

一郎の苦悶はこんな馬鹿馬鹿しい懇願を弟に打ち明けるまでに重症の様であります。本当に馬鹿みたいな一郎さん。しかし「宗教」を失った人間の運命はドブ臭い本能の泥沼でのた打ち回るのみ、と思う私にとっては分からなくはない。「信仰心」を取り戻すためには人は大抵の醜態を敢えて晒すし、そうまでしても尚取り戻すことができないことが大半だから、「信仰の危機」は恐ろしいのだと思う。きっと自分の頼みを最も馬鹿馬鹿しいと感じていたのは一郎さん自身ではなかったか、と思う次第。

馬鹿馬鹿しいと思いながらも兄に押し切られる形で嫂と二人きりで和歌山へと旅立つこととなった二郎ですが、当初日帰りの計画であったはずが折悪しく到来した暴風雨の影響で帰宅困難となり、やむなく二人同室で旅館へ投宿することと相成ります。二郎は不味いことになったと落胆しながらも、嫂の意外な側面を垣間見たりもし、それまでに意識したことのなかった感情に突き動かされたりもします。

二郎は、実は秘かに嫂に対して微妙な感情を抱いていたのでしょうか?そうではないと思います。同じ言葉を何度も使って恐縮だけれども、暴風雨によって外界と遮断された二人はひとつ部屋に閉じ込められた男女として、嫂と弟という「関係性」=「宗教」の呪縛から離れた、生身の人間二人として向かい合った結果としての心の動揺ではなかったかと思います。それまで「嫂」というフィルターを通して把握し、理解していたつもりの直の心が、いま初めて一人の「女」の心として把握し直したとき、二郎のなかにそれまでなかったはずの様々な思念が渦巻きます。

 自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質をしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡の藪知らずへ入ったように、すべてが解らなくなった。
 すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。

ま、そりゃそうでしょうよ。

というのが素直な私の感慨。一郎さんほど思い詰めてみなくても、「宗教」を離れてしまえば皆他人の本当の貌や思いなんてわかりゃあしないのだ。ましてやどのような関係にあろうと男と女の間に於いておや。そして二郎さんや我々のような大方の人々は、ま、そういうもんかな・・・という感慨で終わってしまう。ところが我らが(?)一郎さんはそうはいかない。解らないものをなぜ解らないのかとどこまでも突き進んでゆくのであります。時には人の迷惑も顧みず。

 

第三章:「帰ってから」

 「おれは自分の子供を綾成あやす事ができないばかりじゃない。自分の父や母でさえ綾成す技巧を持っていない。それどころか肝心のわが妻さえどうしたら綾成せるかいまだに分別がつかないんだ。この年になるまで学問をした御蔭で、そんな技巧は覚える余暇がなかった。二郎、ある技巧は、人生を幸福にするために、どうしても必要と見えるね」

 自分はこの学問をして、高尚になり、かつ迂闊になり過ぎた兄が、家中から変人扱いにされるのみならず、親身の親からさえも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思わず自分の膝頭を見つめた。

嫂との一夜から、そして関西観光から帰ってからの長野家を描きます。良くも悪くも「摯実」を重んじ軽薄を憎む一郎の精神状態は日々昂じて行き、ついに兄弟は衝突、二郎は実家を出て下宿する決意を固めます。本章で印象的なのは一郎が語る、『神曲』に登場したことで名高い不倫カップル「パオロとフランチェスカ」の物語。不義の愛によって破滅しながらも後世に至るまでその美名を遺した二人を引き合いに出す兄に対して、二郎はいよいよ兄との埋めようのない溝を感じるのでした。

「おれはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟するように残るのではなかろうか。(中略)」

「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ・・・」

「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとするつもりだろう」

一郎さんの言うことは一々御尤もだけれども、これまでの行きがかり上こんなことまで公言されるに至っては二郎さんに同情するばかり。この二人はもう距離を置くしかないのだろう、と思わされます。

終章:『塵労』


長野家という宗教から距離を置いた二郎の耳には坂を転がり落ちてゆくばかりの兄の”病状”が次々と耳に入ってきます。近頃ではなにやらテレパシーなるものを研究し始めているようです。いよいよもって”ヤバい”感じの一郎さん。

(中略)気味が悪いわね、いくら学問をしたってそんな事をしちゃ

ああ育てるつもりじゃなかったんだがね

あれじゃ困りますよ

まるでカフカの『変身』よろしく理解不能な存在となってしまった息子に慄く長野家の人々。一同は一郎の頭の切り替えのために彼と最も親しい友人に旅行に連れ出してもらおうと計画します。その旅行先から一郎の状況や言動を書き綴った手紙が本章の、いや、本作の肝と言えるでしょう。果たして友人Hが読み解いた一郎の”こころ”とは・・・?

 私は兄さんの頭が、私より判然と整っている事について、今でも少しの疑いを挟む余地はないと思います。しかし人間としての今の兄さんは、故に較べると、どこか乱れているようです。そうしてその乱れる原因を考えて見ると、判然と整った彼の頭の働きそのものから来ているのです。

Hは決して一郎が狂っているのではないと言います。狂ったかのように見える彼の乱れの根源は、その整い過ぎた頭脳にこそあるのだ、と。

 「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい

鋭い頭脳を持つが故に、高い教育を授けられたが故に、この世のすべてのものを額面通りに受け取らず、受け取れず、程々のところで納得しておくという幸福に安住することができぬほどに磨き上げられ過ぎた彼の感受性は、まるで赤剥けになった皮膚のようにあらゆる刺激を痛みとして受け止めざるを得なくなったのかもしれません。しかし痛みに悶える彼の姿は決して可憐でも美しくもありません。まるで自分一人が人類を代表して痛みを受けているかのような傲慢さもまた鼻につきます。病に苦しむ人間が、こんな苦痛は健康な人間には分かるまいと倒錯した優越感に浸ることがあるように。常人ならば安住の地である様々な「宗教」さえも、こんな彼にとっては飽き足りぬ、誤魔化しや迷妄に満ちた伽藍堂に過ぎないのかもしれません。

「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」

なんだかもうこの世に安住できる場所は無いような一郎さん。たしかに彼がこの先、生き続けて行こうと思うなら気が違うか、それでなければ宗教に入るかしかないのでしょう。しかしこんな一郎さんが、そして近代的教育を受けた結果少なからず一郎さん的な傾向を持たざるを得ない我々が入ることのできる「宗教」が、この世の何処にあるのでしょうか。

Hは手紙の結びに彼が救われうる最後の可能性を示唆します。

私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆奪い尽くして、少しの研究的態度も萌し得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、必竟物に所有されるという意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ち着けるのでしょう。

 どうしたってそんな一郎さんを想像できない私がいるのでした。

 私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終わる今もまたぐうぐう寝ています。(中略)兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします。

”近代人”とか呼ばれる、様々な理屈を叩き込まれてすっかり”耳年増”になっちゃったがために真に帰依するに足る「宗教」を見出すことができなくなった我々は、あ、いや一郎さんは、死ぬ気がないなら気が違いながら生き続けるしかないのかもしれない。

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