『夏目漱石全集〈8〉1 of 5』【こころ】〈人をつなぐものと縛るもの〉

夏目漱石
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人はなぜ死なないのか?

私は幼いころから疑問だったのです。

なぜ人は自殺をしないんだろう、と。

なんだか恐ろしいガキンチョだったように思われそうですが、べつにこんなことを始終考えていたわけではありません。しかし幼い私の周囲には、たくさんの抜け殻のような大人たちがいたように思えます。「生きていても仕方ない」「死んだほうがマシ」などと愚痴を垂れ流し、それでも面白くもなさそうな顔をしながら生き続けている大人たち。

死にたいなら死ねばいいのに、なんだかんだと理由をつけてブツクサ文句を言いながらも生きているのは何故なのだろう。そこまで言語化していたわけではないけれど、それが幼いころから私のこころに引っかかっていた”謎”の一つだったのです。

私は本書『こころ』を読んで、その”謎”が少し解けたような心持がしたのです。

あらすじ:二十年死ななかった自殺志願者

かつて親友を裏切って死に追いやったという過去を背負い、罪の意識に苛まれつつまるで生命を引きずるようにして生きる「先生」。 と、そこへ明治天皇が亡くなり、乃木大将が殉死するという事件がおこった。 「先生」もまた死を決意する。だが、なぜ・・・

岩波文庫『こころ』あらすじより抜粋

ブンガク小説のあらすじというのは読めば読むほど面白くないもので、以上の文章を読んで「なにこれ面白そう!」と思われた方はまずいないでしょう。しかし余計な詳細を省いて物語のなかで何が起こるかを描き出したらこれを超える文章が思い浮かばないんだから困っちゃう。

蛇足を承知で追加すると・・・。

物語の語り手は学生の「私」で、旅先で知り合った「先生」にどういう訳か惹かれて交際を重ね始めます。「先生」は確かな人格も学識も備えているように見受けられましたがどこに勤めるでもなく、どこで教えるでもなく、ただ妻と二人で東京の片隅にひっそりと暮らしているばかりのようです。 人嫌いというわけではないが人を避けながら生きている「先生」。どうやら秘密はその過去にあるようですが、当然「先生」は多くを語ろうとしません。

そんな不思議な距離感の交際を続けているある日、「私」は実家の父が急病であるという知らせを受けて帰郷する。父の病状、自分の今後・・・そんなあれこれに振り回されるうち、大事件が起こります。明治天皇の崩御、そして乃木大将の殉死。どちらも明治を生きた人々に非常に大きなインパクトを与えた事件でしたが、「私」にとっての大事件はこのあとにやってきます。

なんと「先生」からの遺書が届いたのです。そこには「先生」が自らの過去を赤裸々に綴られていました。20年前に親友を裏切った私は自分が生きるべきではない人間だと思い定めた。これまでずっと死ねずにいたが、明治が終わるこのとき、ついに自分は死ぬのだ・・・。

居たたまれなくなった「私」は明日をも知れぬ命の父を家族に任せきり、ひとり東京行きの汽車に飛び乗ったのでした・・・。

要するに、自らの行いを恥じて「自分は生きるに値せず」と思い定めた人間が、どうして20年もの長きにわたって死なずにいたのか。そして明治天皇崩御と乃木大将殉死という事件がなぜ死のきっかけとなったのか、という二つのポイントが本書の数ある読みどころの一つと言えましょうし、今回はそこに焦点を当てて私の見立てをご紹介したいと思います。

「先生」の生き方

「先生」はかつて資産家の息子として生まれましたが幼くして父が亡くなり、代わって後見人となった叔父にうまうまと財産をだまし取られました。血を分けた親類といえども自らの欲望の前には人は容易く外道になる・・・。若き日の「先生」は人間に対する不信感を募らせますが、かえってそれが自らの拠って立つ足場ともなりました。 自分はそのような人間にはなるまい、と。

さて、「生きている」というだけなら人間でなくとも犬でも猫でもアメーバでもミジンコでも等しく生きていると言えるでしょう。しかし「人間として生きる」ということは、自分という存在がどのように、なんのために生きているのかということを規定して初めて成り立つものではないかと思います。それは何でも、何のためでも構わない。家族のため、夢のため、カネのためetc…

「先生」にとって「人間として生きる」ということは、叔父のように自らの欲望に駆られて他者を裏切って平然としているような、そんな浅ましい行為とは無縁の高潔な人物として生きるということだったのではないでしょうか。しかし・・・。

「先生」の失楽園

そんな若き日の「先生」には親友と呼べる存在「K」がいました。お寺の息子として生まれた「K」は、修行僧を思わせるほどに禁欲的で克己心に富み、向上心に溢れる、はっきり言ってカタブツな青年でした。その真摯な生き方に惹かれた「先生」は「K」を自分の下宿先に呼び寄せ、共に勉学に励む仲になりました。

そんな若き日の「先生」には愛する女性「御嬢さん」もいました。下宿の女主人の一人娘である「御嬢さん」は日に日に「先生」の心を占めるようになり、「御嬢さん」も満更ではないようです。しかしある日「K」もまた「御嬢さん」と好い仲になりつつあるのを見出してしまったのでした。

嫉妬に駆られた「先生」は「K」を詰り、彼の日頃の勉学に捧げた禁欲的態度と「御嬢さん」に対する恋愛感情との矛盾を厳しく追及します。それは理屈としては正しいかもしれませんが、もとより自負心と愛との相克に苦しむ「K」には余りにも酷い仕打ちでした。自らが拠って立つ足場が崩れ去り、自分が弱い人間であると思い知った「K」は自死を遂げるのでした。

そのとき「先生」は自分がかつての叔父と同じ、自らの欲望のために他者を犠牲にして平然としている、浅ましい人間であると思い至ったのではないでしょうか。「先生」は「K」の生きる地盤を崩したのと同時に、自分自身の生きる基盤をも破壊したとは言えないでしょうか。

叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事みごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

何食わぬ顔で自分を騙して財産を掠め取った叔父と、何食わぬ顔で「K」を難詰して愛する女性を掠め取った自分。いったい何が違うというのか。いや、相手を結果的に死に追いやった自分の方が叔父などよりはるかに恥ずべき人間である・・・。

こうして「先生」は自らの生きる理由を喪ったのでした

生きることはやめたけど…

さて、理屈で言うならばここで「先生」は速やかに死ぬべきでしょう。しかし「先生」は死なない。それはお前、人間というのはそんなに単純なものではなくてだね・・・ という声も聞こえてきそうですがまさにその通り。人間というのは一度や二度生きる意味や理由を否定されたりしたぐらいで死ぬものではありません。多くの人々は新たに自分が生きる意味や理由を思い定めて人生の再スタートを切って行くものでしょう。しかし「先生」は?

「先生」の人生には何があったでしょう。親友を死に追いやってまで手に入れた愛する人との結婚生活はもはや抜け殻となった「先生」にはなんの慰めにもなりませんでした。「先生」は地位にも名誉にも金銭にも興味がない。生きていて何も愉しいことがない。しかし死なない。

自殺を遂げる人々の多くはどのような状況で死を選ぶのでしょう。WHOの調査によると自殺に及ぶ人々の約9割になんらかの精神疾患や抑うつ状態の特徴がみられるということです。「先生」はどうだったでしょう。私は「先生」の言動にそれらを思わせるものは読み取れなかったように思います。おそらく「先生」は精神的にも知的にも実にクリアな状態で生きることをやめていたように思えます。

 書物の中に自分を生き埋めにすることの出来なかった私は、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。(中略)この浅薄な方便はしばらくするうちに私をなお厭世的にしました。私は爛酔らんすいの真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振みぶるいと共に眼も心も醒めてしまいます。

では「K」は? 「K」は精神を病み、もしくは抑うつ状態になって自死を遂げたのでしょうか。これまた私にはそうは思えません。「K」は彼一流の強靭な精神力によって、積極的に死に向かって歩を進めたように思えます。

自ら死に向かって歩みだすこころ。それが「K」と「先生」の、そして生きていても何も良いことがないとうそぶきながらも生きることを止めない人々との違いなのではないでしょうか。

「死」の引力

そこで登場するのが明治天皇の死、そして乃木大将の殉死です。明治天皇の死は明治の精神の終わりであり・・・などと言ってみても正直私にはピンときません。本作の重要キーワードの一つに対してずいぶんな言い草ですが、ピンと来ないものはしょうがない。代わりに私が連想したのは「死の引力」という言葉でした。

明治維新このかた日本の象徴として君臨した明治天皇の死は明治の世を生きた人々に想像を絶するインパクトを与えたことでしょう。そして乃木大将。西南戦争の折に軍旗を奪われるという軍人として最悪の屈辱を味わった乃木大将は35年の長きにわたって死に所を探していたと言います。それが自らを信頼し重用してくれた明治天皇に殉じるという形でついに死に所を見つけたというエピソードがいたく「先生」のこころを刺激したようです。

人間が人間として生きるためには「生きるための何ものか」が必要であるのと同じく、人間が人間として死ぬためには「死ぬための何ものか」が必要なのではないか。

ここに私の漠然とした”謎”の答えの一端があるように思えました。「生きることをやめる」ことと「死に向かって歩みだす」ことは決してイコールではないのだ、と。

「死ぬための何ものか」を待ち望んでいた乃木大将は明治天皇の死にそれを見出し、「先生」もまた同じくそれを見出したのではないでしょうか。本作は決して遠い過去に書かれた遠い過去の人々の物語ではなく、充分に現代人の我々の琴線にも触れ得る「生と死」をめぐる物語であるとは言えないでしょうか。

「K」はなぜ死んだのか

さて、今回は「先生」の二十年越しの死をテーマに書かせていただいた本文ですが、私が本作でこころ惹かれた個所がもう一つあります。それは本作における「淋しさ」というキーワード。自らが死に追いやった親友「K」の死の理由を「先生」はこう述べます。

 私はしまいにKが私のようにたった一人でさむしくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました。

これはどういう意味でしょう? 本作には他にも「淋しい」という言葉が出てきます。「先生」は自分が淋しい人間であり、「私」もまた淋しい人間であろうと言います。これはどういう意味でしょう。私にはこの言葉が漱石作品のキーワードの一つである「エゴイズム」の根元であると思うのですが、それは次の記事で。

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