『夏目漱石全集〈8〉5 of 5』【道草】〈海のものともつかず、山のものともつかず・・・〉

夏目漱石
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本作『道草』は漱石晩年に書かれた「私小説」であるそうですが、思えば私小説というのはナラティブ・セラピーの一種であるのかもしれません。作者のうちに蟠る黒い塊の出所を克明にアウトプットし、それが読み手の塊りと共鳴し合うことができればめでたく「小説」の出来上がりなのかもしれません。私小説というのは賛否両論好き嫌いががっちりと出るもので、嫌いな人はとことん嫌いです。おそらく内心の黒い塊を持ち合せない、または作者のそれとは合わない、またはそういったものは人目に晒すものではない、という人にとっては私小説などというものは胃腸が壮健な人にとっての胃腸薬と同じく、余計で無意味な代物なのかもしれません。

表現欲求の根っこ

さて「物語を欲する人」そして「物語ることを欲する人」つまり「表現に飢えた人」というのは「自分がこの世に存在していることへの違和感」を感じたことがある人ではないかと思っているのだけれど、本作で気の合わない妻やら傍迷惑な親類やらに囲まれて右往左往させられている主人公健三、つまり若き日の漱石もまた、「自分は果たして何のためにこの世にいるのか」という、宗教に縋るしかどうしようもない懊悩に嵌り込みます。そしてその懊悩は即ち創作者としての「貯金」であると思うのです。

さてさて、物語は留学先から帰ってきた主人公健三が、長い隔絶を経てかつての養父と再会する所から始まります。この島田という老人は因業な性質の持ち主であり、かつて健三の父の世話になり、その子を養子として貰い受けたものの夫婦そろって余りに自己本位な養育環境を築いたことで健三の幼い精神を辟易させ、さらには家庭内で不倫騒動のゴタゴタを起こしたことで子供の養育上よろしくなしということで手放さざるを得なくなったとんだ駄目人間であります。

しかも往時からのカネにがめつい性向にも拘らず今ではすっかり尾羽打ち枯らし、成長して相応のカネを持っている(であろうと見込んだ)健三に無心を繰り返すとんでもない老人なのです。

本作が「私小説」と言われている以上、この人物にも明確なモデルがいるらしく、かつての漱石の養父塩原昌之介がそれであるそうです。一旦養子へやられたものの家庭の事情によって生家に引き取られ、後に養育料という名の手切れ金を払って正式に縁を切ったといういきさつが事実としてあったようですね。

前述の「この世に存在することへの違和感」とはつまり私の使う「宗教」への違和感ということであると思います。「自分はこのために生きている」という矜持や、「生きていることが当然である」と思える周囲との調和が乱れた時、人はこのテの違和感に苛まれ、以て表現者としての扉の鍵が開くのではないか。そして人がこのテの違和感に陥る最初のきっかけは、家族という名の巨大宗教との軋轢ではないかと思う次第。ちょっと漱石…じゃなかった健三の幼少期の家庭環境を抜粋してみましょう。

 しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
 彼らが長火鉢の前で差向いに座り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問をかけた。
 「御前の御父さんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼をゆびさした。
 「じゃ御前の御母さんは」

 健三はまたお常の顔を見て彼女を指した。これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事をほかの形で訊いた。
 「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
 健三は厭々ながら同じ答を繰り返すよりほかに仕方がなかった。しかしそれがなぜだか彼らをよろこばした。彼らは顔を見合わせて笑った。

 (中略)

 「健坊、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御云い」
 彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。

 「御前誰が一番好きだい。御父さん? 御母さん?」
 健三は彼女の意を迎えるために、向こうの望むような返事をするのが厭でたまらなかった。彼は無言で棒のように立っていた。

 (中略)

 夫婦は全力を尽くして健三を彼らの専有物にしようとつとめた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。したがって彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼にはすでに身体の束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。

 (中略)

 夫婦は健三を可愛がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。
金の力で美しい女を囲っている人が、その女の好きなものを、云うがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分達の愛情そのものの発現を目的として行動する事ができずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せねばならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自ら知らなかった。

そして島田の妻であるお常という老婆もまた、不倫騒動の勃発とともに幼い健三に昏い怨念を吹き込んではまたもその精神を辟易させたのであります。

 「あいつはかたきだよ。御母さんにも御前にも讐だよ。骨を粉にしても仇討をしなくっちゃ」
 お常は歯をぎりぎり噛んだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。

 (中略)

 「あいつ(※不倫相手)もいっしょなんだろう。本当を御云い。云えば御母さんが好いものを上げるから御云い。あの女も行ったんだろう。そうだろう」
 彼女はどうしても行ったと云わせようとした。同時に健三はどうしても云うまいと決心した。彼女は健三を疑った。健三は彼女を卑しんだ。

 「じゃあの子(※不倫相手の娘)に御父さんが何と云ったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」
 何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかしお常はそこでとまる女ではなかった。
 「汁粉屋で御前をどっちに坐らせたい。右の方かい、左の方かい」
 嫉妬から出る質問はいつまで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく露わして顧り見ない彼女は、十にも足りないわが養い子から、愛想を尽かされて毫も気がつかずにいた。

これらの言動から察するに、結局二人とも親となる器ではなかったのでしょう。社会通念上、子の一人ぐらいいなくてはというタテマエで親となったに過ぎないのでしょう。他人の身体を使ったオナニーをセックスと勘違いするヤツがいるごとく、他人を通じて自分を愛することを愛情だと勘違いするヤツがいる。漱石…じゃなかった健三は、島田夫婦のダッチワイフだったのです(←品のない例えだが間違っちゃいまい)。私は自分よりも弱い者を「感動ポルノ」の「オカズ」にするという意味で、このテの「愛情」の持ち主、いや、持っていること自体は誰にも人のこと言えた義理じゃないが、それに対する自覚や羞恥心のない者を、児童ポルノ愛好者に対するように軽蔑すr…あ、脱線失礼。

背教者の観察眼

いつの時代も「トロフィーワイフ」や「トロフィーハズバンド」ならぬ「トロフィーチャイルド」を欲する人というのはいるもので、その元凶はなんであるかといえば「家族」という名の巨大宗教への憧憬なのではないでしょうか。「よき妻」、「よき夫」、「よき子供」を持つことが「よき人」としての承認欲求の供給源になり得る限り、このテの弱者を使ったオナニーは尽きることがない。そして例えば肉体的虐待のように誰の目にも明らかなものでなくても、幼少期に周囲への違和感を感じさせられながら育った子供というのは大抵観察力が鋭くなる。それは誰もが属して信じて疑わない「宗教」から逸脱してしまった代償として与えられた能力なのかもしれない。ありがたいんだかありがた迷惑なんだかわかんないけれど。

もしかしたら漱石の皮肉な観察眼というのは、この時代の体験にその根っこがあったりするのかもしれません。上記の場面を読んでいると、養父母を見る健三少年の甲虫染みた黒い光を発する瞳が想像せられて私はけっこうゾッとしたのです。そして島田家の惨状を見兼ねた生家に引き取られた健三にとって、自分が生まれた家庭もまた生き易い環境ではなかったのでした。

 実家の父にとっての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損ないが舞い込んで来たかという顔つきをした父は、ほとんど子としての待遇を彼に与えなかった。今までとうって変わった父のこの態度が、うみの父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。

 健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、山のものにも手を出した。
 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多がらくたとして彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立ててやろうという目算があるだけであった。

健三少年は、家族という名の楽園であるはずのモノから見事「失楽園」を遂げたようです。そして血縁関係に拠ろうが拠るまいが、人間にとって最初に自分を守ってくれる家族という名の宗教への信仰心など薬にしたくともない健三には家族など単に他人の寄せ集めでしかなく、社会通念上結婚せねば人でないとされていたあの時代であったから結婚して妻や子供たちに要らぬ傷をつけたのだろうとも。結婚や家庭というものへの宗教意識も希薄になった現代社会に生まれ、一人で生きるという選択肢を選んでいればもう少しは周囲への迷惑度も低かっただろうにと思う次第。

そして確固とした「絶対」の地盤を持たない人間が「相対」にぶつかった際の揺らぎ方は、それを持つ人間と比べて大きく致命的になってしまい易いのかもしれません。

 「おれが悪いのじゃない。おれの悪くない事は、たといあの男に解っていなくっても、おれにはよく解っている」
 無信仰な彼はどうしても「神にはよく解っている」と云う事ができなかった。もしそういい得たならばどんなに仕合わせだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳はいつでも自己に始まった。そうして自己に終わるぎりであった。

「親類間のゴタゴタ」で取りまとめられる雑多な塵労に煩わされどおしの健三はとうとう精神的に追い詰められて往来を彷徨します。それは煎じ詰めればカネを巡る生臭くも俗悪な出来事のオンパレードでありますが、まあ人を苦しめるものというのはだいたい俗悪なもんでしょうからその辺は各々それぞれに身に覚えのある痛みに置き換えればよろしいかと。

 人通りの少い町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
 「御前は必竟何をしに世の中に生まれてきたのだ」
 彼の頭のどこかでこういう質問をかけるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
 「分からない」
 その声はたちまちせせら笑った。

 「分からないのじゃあるまい。分かっていても、そこへ行けないのだろう。途中で引かかっているのだろう」
 「おれのせいじゃない。おれのせいじゃない」

 (中略)

 彼はふと気がついた。彼と擦れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙しそうであった。みんな一定の目的をもっているらしかった。それを一刻も早く片づけるために、せっせと移動するとしか思われなかった。
 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥を与えた。
 「御前は馬鹿だよ」
 稀にはこんな顔つきをするものさえあった。

自分の中で声が響き始め、他人の何気ない仕草や顔つきからあらぬ想像を膨らませるようになってきたら色々とそろそろであります。頭の中の渦巻きを収めることに失敗し、家へ帰った健三は少しでも心を落ち着かせるために文章を書くという「表現」に手を染めるのでした。

 健康のしだいに衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働いた。あたかも自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己れの病気に敵討ちでもしたいように。彼は血に餓えた。しかも他を屠る事ができないのでやむをえず自分の血を啜って満足した。

私はかつて肉体的な自傷行為を好んでいましたが、言葉を使っての表現欲求は自傷衝動に駆られた時の心のざわつきと似ているような気がします。自分の中に在るモノを抉りだして何かの「形」にしたいのです。その時に多少の痛みが伴おうが、それをものともさせない衝動に突き動かされているのです。自分の身体に反抗するように、わが衛生を虐待するように、己自身を仇討つように、他に向けることが出来ない衝動を自分自身にぶつけて出来上がった自分の「血」と「傷」を眺めて満足するのです。

 「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ」

人間が考え出す表現は所詮みんなチャチな小刀細工ではなかろうか。しかしそれをいうなら人間が考え出すあらゆる宗教も所詮は大掛かりな小刀細工ではないか。しかしそれらに守ってもらい縛ってもらわなければ生き来て行くことが出来ない以上、それらから逃れて束の間の解放を得るためにもハンドメイドの小刀細工を欲する以外にどうしようもないのではないでしょうか。

さて、業深き「島田夫妻」は漱石にとって軽蔑の対象でありながらもどこかで創作者としての生みの親染みた感慨はあったのかもしれません。本作に登場する島田老夫婦への描写には矮小化とは異なる、なにやら哀れな老人に対する哀愁を感じはしないでしょうか。

気の毒な事に、その贈りものの中には、疎い同情が入っているだけで、露わな真心は籠っていなかった。彼女はそれをよく承知しているように見えた。そうしていつの間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しのつかないものだから、諦めるよりほかに仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、お常の帰って行く後姿を見送った。
 「もしあの憐れなお婆さんが善人であったなら、私は泣く事ができたろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事ができたろう。零落した昔の養い親を引き取って死水を取ってやる事もできたろう」
 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。

 「必竟大きな損に気のつかないところが正直なんだろう」
 健三はただ金銭上の慾を満たそうとして、その慾に伴わない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働かせている老人をむしろ憐れに思った。(中略)

 「彼はこうして老いた」
 島田の一生を煎じつめたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果たしてどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌(きらい)であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾な老人の一生と大した変りはないかもしれないという気が強くした。

絶対的なるものを持つことが出来なかった漱石…あ、いや健三にとって、本来ならば蛇蝎の如く憎むべき養父母もまた、我が身と相対させるべき一個の対象に過ぎないのかもしれません。

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