『夏目漱石全集〈8〉4 of 5』【こころ】〈名もなき人々〉

夏目漱石
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「名無しさん」の物語

私は『こころ』を読んでいてふと疑問に思ったことがありました。なぜ登場人物はみなことごとく匿名なのだろう・・・と。物語の語り手はどこまでも「私」だし、実質的な主人公もどこまでも「先生」。その親友である「K」に至ってはそのものずばりイニシャルです。「御嬢さん」のちの「奥さん」「妻」だけは例外的に「静」という名前が出てきますが、これは会話文を成立させるための都合上といった感じが強く、「私」の周辺人物たちもまた「父」に「母」に「兄」に「妹」。せいぜい名前が出るのは妹の夫の「関さん」ぐらい。 いったいこの物語の登場人物たちはなぜこんなにも平板な「記号」で呼ばれるのでしょう?

私はふと思いました。それはこの物語がひとりの人間の「こころ」を描いた作品だからではないか、と。

私たちのなかの「私」「先生」「K」

現代社会に適合しながら生活を送りつつこれといった目的もなく、なんとなく気になった物事に突っかかりながら生きている「私」。聡明さを持ちつつも人や社会に対する青臭い思い入れを捨てきれず、そのために人や社会を見詰めながらも敬遠する「先生」。痛々しいまでに自分の理想に忠実に、ストイックな生を目指す「K」。これら登場人物たちの生き方それぞれに共感するポイントがありはしないでしょうか? 自分のこころのなかに、どこか身に覚えはないでしょうか?

人のこころは多面的です。ある時はこう思っていたのにある時にはこう。別のある時はまったく別な心境になるが、ちょっとしたことをきっかけにその真逆の心境にもなり得る。それは一時の変化に過ぎないこともあれば、長い時間をかけて少しづつ進んで行く変化であったりする。

私たちはこころの内に「私」や「先生」や「K」を秘めているのではないか。そして「御嬢さん」とは人がその人生を歩むなかで目指す”何ものか”を現わしているのではないか。それは愛する人かもしれないし、社会的成功かもしれない。人が苦難を味わってでも手にしたいと思う”何ものか”を象徴しているのが「御嬢さん」ではないか。

人は生きて行くために、成長するために、何かを手に入れるために、何かを守るために、青臭く理想主義的な自分を葬らざるを得ません。そうして”自殺”に追いやってしまった自分の一部「K」に対する罪悪感を持て余しながら生きてはいないでしょうか?

そしてそんな自分の心情を、とりあえず現実社会に適応しながら生きている自分自身に弁解しながら生きてはいないでしょうか?

常識的な読み解きを大きく逸脱していることは百も承知で、私はそんな風に思ったのでした。

負の成長物語

人は誰しも若い頃、そのこころに理想を燃え立たせてはいなかったでしょうか?

 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

「K」が頻繁に口にし、ついには彼自身を追いつめることとなったこの言葉。「K」を象徴するこの言葉を、日頃口にはしないまでもこころに秘めていた頃はなかったでしょうか?人生経験も社会経験も乏しいためにかえって自分にも他人にも理想を求め続け、こころをひりつかせていた頃はなかったでしょうか?

そしてその理想が、現実の前に木っ端みじんに砕かれた思い出はなかったでしょうか? 現実という名の怪物によって?

いいえ、現実に屈した自分自身の手によって。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と信じて疑わなかったあの頃。

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」と自らの言葉で自らを焼き尽くしてしまったあの頃。

 めてくれって、僕が言い出した事じゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は平生の主張をどうするつもりなのか」

 「覚悟、 -覚悟ならない事もない」

厳しい現実にぶち当たった結果それまで自分が後生大事に掲げていた理想を棄てることで、私を含めた多くの人は成長し、かつての青く世間知らずな自分は記憶の彼方へと追いやってしまいます。しかし”仕方がないこと”として自分の一部を否定し葬り去ったことを、いつまでも思い出しては悔やみ続けている自分に気付くときもまた、ありはしないでしょうか?

人として、社会人としての成長のために自分のなかの「K」を死に追いやったのは決して悪いことではない。しかし本当に・・・本当にこれでよかったのだろうか・・・。

その答えは永遠にわかりはしないのです。

「先生」を呼ぶ声

「K」の自死を目前にして深い自己嫌悪に陥った「先生」は「K」の暗い影に引きずられるように生きることになります。

そうしてまたっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過よこぎり始めたからです。

はたして「先生」に道を暗くしたものは「K」の影なのでしょうか? 「先生」を死んだように生きさせたものは「K」の怨念だったのでしょうか? 私にはそうは思えません。

 「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟しげきで躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出てきて、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言でぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何でひとの邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力はひややかな声で笑います。自分でく知っているくせにといいます。私はまたすぐぐたりとなります。」

「自縄自縛」という言葉が私の頭をよぎります。ひたすら自らの弱さに絶望して死んだ「K」の死の責任に打ちひしがれる「先生」の姿は、成長とともに自らの理想に生きようとする一部を葬り去ったあとの自責の念に打ちひしがれる私たちの姿と重なりはしないでしょうか?「先生」の脳裏にひらめく心の声は、「K」ではなく「先生」自身の声に他ならないのです。

私たちはどうでしょう? 時に横過る「K」の影に慄っとしながら、そのこころの内の告白である「遺書」を自分自身に向かって綴り続けてはいないでしょうか?

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