『夏目漱石全集〈8〉2 of 5』【こころ】〈エゴイズムの根っこ〉

夏目漱石
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「先生」と「私」

人はなぜ人につっかかりながら生きるのでしょう?

なんだかずいぶんな物言いですが、人は良かれ悪しかれ他者に”つっかかり”ながら生きてはいないでしょうか? 人は頼まれもしないのに他人に興味を持っては良くも悪くも”縁”をつないで生きているように思えます。

あなたにとって大切な人も、かつてあなたが”つっかかった”ことで、または”つっかかられた”ことで良い縁を結んだのではないでしょうか? またはあなたにとって厄介な人も、かつてあなたが”つっかかってしまった”または”つっかかられてしまった”ことで悪い縁を結んだのではないでしょうか?

『こころ』という物語において「私」が「先生」との縁を結び得たのもまたこの種の”つっかかり”ではなかったでしょうか? 物語冒頭での「私」は確たる理由もないまま「先生」に興味を持ち、現代っ子の我々からは異様に思えるほどそのあとをつけまわすという執着を示しています。はっきり言ってストーカーです。

 しかしこのストーカーじみた”つっかかり”によって物語は始まり、動き出し、「私」そして読み手である我々は「先生」の秘めたるこころの秘密を知るに至ります。あなたもわざわざ自分から人につっかかって行ったことで大切なものを獲得したり喪失したりしつつ、人生を歩んで来たのではないでしょうか。

それにしてもなぜ人は人に”つっかかる”のでしょう?『こころ』を読んだ私は、「淋しい」という感情がその”根っこ”であると思ったのです。

「淋しい」人々

 こころ』にはほぼすべての登場人物に「淋しい」という言葉が割り振られています。

「先生」は「私」にこう言います。

 「私は淋しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間じゃないですか。…」

 「奥さん」はまた食卓で先生にお酒を勧めつつこう言います。

 「召し上がってくださいよ。その方が淋しくなくって好いから」

 「先生」はかつての親友「K」の自殺の原因についてこう考察しました。

 私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決したのではなかろうかと疑がい出しました。

 若き日の「先生」と「K」の静かなる修羅場の舞台となった下宿の主である「奥さん」が下宿を貸し出した理由もまた、軍人である夫が亡くなり娘と下女だけの所帯が

 無人で淋しくって困るから

 そして物語中編で、古きしがらみの象徴として「私」を辟易させる「父」が口にする言葉にも、

 「御前が東京へ行くと宅はまた淋しくなる。何しろ己と御母さんだけなんだからね。…」

 と、物語に登場するほとんどの人物たちには自分からであろうと他者からであろうと、「淋しい」という言葉が冠せられているのですね。そんなもんたまたまだろうよ、と言ってしまえばそれまでですが、それでは本を読む甲斐がないというものです。私は「淋しい」というキーワードこそが『こころ』の原動力であり、良くも悪くも人間を突き動かすこころの原動力であると思うのです。

「私」の恋

 なぜ「私」はこんなにも「先生」に執着していたのでしょう。そのカギは「私」に対して「先生」が告げた、この言葉にあると思います。

 「恋に上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

 「恋」とはどういう意味でしょう? 「恋」とは古くは「孤悲」とも書かれていたそうで、『日本国語大辞典』には

「目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持の裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある。…」

とあります。そもそも「恋」という言葉は異性に限らず広くものごとを愛し慈しむこころを指す言葉であったようです。そしてその背後には「淋しい」という感情が控えている。またしても「淋しい」・・・。

人は「淋しい」から恋に落ちる。恋によって「淋しい」気持ちを克服しようとする。それは「承認欲求」を充たすとも言い換えられるでしょう。「淋しさ」を充たすということは自分という存在を認め、受け入れてもらうということに他なりません。思春期という自己形成のはじまり以降、人が誰しも愛や恋、さらに言えば性行為といったことがらに夢中になるのは、それらが承認欲求を充たす最上級の手段であるからではないでしょうか? しかし承認欲求を充たすためには相手の「承認」がないとオハナシにならないわけで・・・

「私たち」の恋

独りよがりで独善的な「恋」はときに相手を困惑させ、怯えさせ、恐怖させます。例えばストーカーや性犯罪者の多くは、本質的には恋愛感情や性欲といった表面的な感情を通して自己の承認欲求を満たすための手段として被害者を追いつめ、その尊厳を食い荒らします。「淋しい」こころを抱くこと、それを充たすために「恋」に落ちることになんの責めるべき点もないとはいえ、その手段を誤ればその人は犯罪者となります。あるとき「先生」は「私」に語ります。

 「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」

「恋」こそがエゴイズムの根っこであり、罪悪の根元であり、そうして神聖なものである。人が人に”つっかかる”ことがなければ人に迷惑をかけることも傷つけることもない代わりに、人が愛し合うこともない。煎じ詰めれば人は「恋」によって動き、人の集合である社会もまた「恋」によって動いているとすら言えないでしょうか?

人を「恋う」こころに根差したエゴイズムによって「先生」は「御嬢さん」を慕い、「K」を呼び寄せ、「K」が「御嬢さん」を慕い、「先生」が「K」を裏切り、「淋しい」こころに耐えかねた「K」は自ら死を選び、「先生」は自責の念によって生きながら死の谷を歩むこととなり、「先生」に「恋」を抱いた「私」の存在によって、そのあらましを私たちが知るに至るのです。

そんな私たちもまた「淋しい」こころに耐えかねて誰かに、何かに「恋」を抱き、その結果として自分を、そして相手を幸福にしたり不幸にしたりしながら生きてはいないでしょうか? すべては独りでは「淋しい」という非難しようもない、しかし身勝手な、エゴイスティックな、こころの動きによってもたらされるのではないでしょうか?

 人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、 ――これが先生であった。

私たちもまた、いつも人間を愛することができ、愛せずにはいられず、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締めて満足したり、後悔したり、抱き締めてよかったのかどうか迷い続けたりしているのではないでしょうか?

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