夏目漱石全集〈3〉は『草枕』『二百十日』『野分』の三作品が収録されております。などと偉そうに説明しておりますが、私にはまずこれら三作の表題の言葉の意味さえ判りかねまする。なになに・・・。
- 【草枕】:(旅先で、草で仮に編んだ枕の意から)旅寝すること。旅先でのわびしい宿り。
- 【二百十日】:立春から数えて210日目、9月1日頃。台風襲来の時期を指す。
- 【野分】:(野の草を風が強く吹き分ける意)秋から冬にかけて吹く暴風。特に二百十日、二百二十日の台風。
だって、勉強んなったね! なに、「そんなことぁ知ってんだよこの箆棒め、無駄口叩かずにとっとと本題に入りやがれ咄この乾屎橛」だって? こいつぁ失礼をば。
『草枕』
「小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでいるのが面白いんです」
この一節を初めて読んだのは古代ローマの風刺小説『サテュリコン』の解説文のなかでだった。以来私は小説に限らず、その主意は良く呑み込めなくても美的な場面や文章や絵その他諸々が印象的な作品に突き当たるたびにこの言葉を適用して潜り抜けてきた。意味や意義や歴史的位置づけが分からなくても、接していて愉しいならそのためだけにも作品に触れていたっていいじゃないか、誰が迷惑するでなし。という我が居直り根性の源泉でありました。そうか、あの言葉の出典はここだったか、と極々個人的な感慨に浸る。
いきなり閑話休題。主人公である芸術家肌の男は人の世に倦み人の世を離れ山奥の温泉宿に「非人情」の旅に出た。ここでいう非人情とは所謂「人情」つまり人としての主観的な感情を介せずに人や事物を眺め、そこから醸し出される美を味わおうという趣向の旅であるようです。
恋は美しかろ、考も美しかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当たれば利害の旋風に捲き込まれて、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
男は西洋的な赤裸々な「説明」に溢れた20世紀的価値観を厭い、「わざわざ呑気な扁舟を泛べてこの桃源に遡る」が如き旅路を志すのである。男は「そのまんま」が溢れた現代の風潮に辟易し、かといって何が何でも古き昔が良いという懐古主義者でもない。身も蓋もない言い方をすれば美も芸も含めた世の中の諸々が「やんなちゃった」人間であり、旧い中国の詩に謳われる忘我の境に憧れる世捨て人モドキである。
独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。(ひとりゆうこうのうちにざし、きんをだんじてまたちょうしょうす、しんりんひとしらず、めいげつきたりてあいてらす)ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
「物語」といっても特にこれといった筋や事件はないようで、作者漱石の芸術観や人生観を散りばめた一幅の絵巻物という心持で読み進めた次第。実際作中に展開する様々の論は興味深く、また大いに賛同しながらも、それ以上に惹かれたのは作中に散りばめられた場面場面の描写の妙。「長げぇよ」というツッコミを覚悟で抜き出すならば・・・(←覚悟するぐらいならやめなさいという分別は私にはない)
二間余りを爪先上がりに登る。頭の上には大きな樹がかぶさって、身体が急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはしない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがしない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた。後は何だか凄くなる。あれほど人を騙す花はない。余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒ますほどの派手やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。冷ややかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部はどこまでも派手に装っている。しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、免れる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺りは今でも少々赤いような気がする。また落ちた。池の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間に、落ちた椿のために、埋もれて、元の平地に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った。人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
他にも色々ありますがこんなことばっかりやってると「あれ、ここどこの青空文庫だ?」ということになりますのでよすとして、中盤からは上記の深山椿を彷彿させる妖しいヒロイン(?)御那美さんが登場。人によっては「気狂」とも評されるその人離れした、艶然とした雰囲気と危うい会話が茫洋とした物語に香味を添えます。
しかしそんな浮世を離れた僻地を往く非人情の旅にも、山を越え海を越えて忙しない現実の息吹が流れ込む。御那美さんの従弟であり主人公の顔見知りでもある青年久一は日露戦争に召集される。物語の終幕は汽車に乗り、戦争という現実に攫われてゆく久一を皆で見送る場面で終わる。示唆に富んだ人生論・芸術論という「人情」、または全編に醸される美しい描写と印象という「非人情」のどちらに重きを置いて読んでも美味しい一作。ただ終末には一場の夢から無理に引き戻される野暮に眉を顰めたくなるような読後感を味わうのでした。
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱に詰めて轟と通る。情け容赦はない。
余は汽車の猛烈に、見界なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、客車のうちに閉じ込められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。おさき真暗に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。
この手の「あぶない」は二十一世紀の今日も変わりないようである。意識していようがいまいが、何時か何処かで如何にかして現実世界に足を掬われた挙げ句に十把一絡げ一山幾らで一つの貨車に詰めこまれ、容赦なくどこかへ売り飛ばされてしまうかもしれない我が身だけれど、この「あぶない」を意識しなくなったら私も終わりであると思う。しかし久一のように現実世界に攫われてゆくのは御免だが、主人公のように何も生み出すことなく世界の傍観者でいるのもまた気詰まりではある。ふむ、とかくに人の世は住みにくい。
『二百十日』
圭さんと碌さんの二人組が連れ添って阿蘇登山に向かう。全編ほとんどが会話文で構成され、また圭さん碌さんというネーミング、作中の素っ頓狂なやりとり等々から落語を彷彿させる作品。圭さんは世のブルジョア並びに上層階級をこよなく憎む豆腐屋の倅であり、碌さんはどちらかといえばブルジョア出身っぽいご様子。世間を食い物にする上層階級に対する罵詈雑言をまき散らす圭さんとそれをはいはいと聞いたり受け流したりする碌さんの道中は弥次さん喜多さんのよう。
「華族や金持ち」に対して憤怒する圭さんに応ずるように阿蘇の火口はぐらぐらと煮立っている。二人はよせばいいのにそんな阿蘇に登ろうと試みて、折悪しく到来した二百十日の嵐にも揉まれて踏んだり蹴ったりな目に遭うのでした。二人の軽妙な会話、圭さんの怪気炎、阿蘇の山路の描写の美麗さ雄大さ恐ろしさ。世の革命家や活動家はこんな真面目なような、とぼけたような行路を生爪剥がしたり腹を冷やしたりして歩きながら、色んなことを成し遂げたり成し遂げ損なったりして行くのだろうか。
二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と不平を限りなき碧空に吐き出している。
二人の頭の中でも、二百十一日の阿蘇が轟々と不平を限りなき碧空に吐き出しているようだ。
『野分』
白井道也は文学者である。
高柳周作は日陰者である。
中野輝一は日向者である。
物語はこの三者を中心にして渦を巻く。文学を修め、高尚なる人格こそが社会で最も必要なものであると確信し、教育に一身を賭けることを誓った白井道也だったが、身も蓋もない現金主義に冒された社会と衝突しては職場を転々としている。はじめは越後の、次いでは九州の、そのまた次は中国地方のさる中学校に赴任するも悉く世間の陋習に阻まれて職を辞し、今度は東京にやって来た。道也は既に教職に就くことは諦めている。こんな腐った世の中は子弟の教育云々以前に世の中そのものの啓蒙・矯正が必要である。よって余は文筆の力を以て世に正しき事々を広めるのである。確かな職と俸禄を捨て、高邁なる理想に燃える道也。その御説はまことに御もっとも。読者は一々頷きつつ大いに道也先生に共感し、エールを送る気になるのであります。頑張れ道也、負けるな道也。しかし一つ困ったことには、この先生には立派な細君が在ったのでありました・・・。
しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱する気遣はない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。
なんたることか、高潔なる道也先生は家庭にあっては細君に満足なメシも食わせ得ぬ大罪人なのでありました。果たして道也先生は偉大なる思想家であるのか、はたまた只のダメ男であるのか。
高柳周作と中野輝一は同窓に学んだ親友同士である。二人は互いに、否、少なくとも高柳君は相手を無二の親友と心に決めている。しかしその気質はまさに正反対。中野君の明朗に世間を公平に観ようとする態度と裏腹に、高柳君は自らの思うようにいかぬ世間に昏い僻み恨み憎しみを滾らせている。それは下手をすれば親友中野君にまで及ぶこともある。豊かな家に生まれ愛する恋人との将来も明るい中野君に比べ、貧しく生まれ頼りとする人もない高柳君の周囲は飽くまで暗い。なんてったって「世間は敵」と自ら決めて掛かっているのであるから。
「(中略)君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊っちになってしまうんだよ」
物心ともにバランスのとれた朗らかな中野君はこれからさき無事に世を渡っていけそうな按配であるが、この高柳君は事に依っては鬼にも蛇にもなるやもしれぬクセモノである。果たしてこの凸凹コンビと道也先生の人生行路はどのように交わりどのような結末を迎えるか。
そもそも道也先生と高柳君とは因縁がある。いや高柳君の方に一方的に因縁がある。なにせ彼は中学生時代、越後に赴任していた道也を嫌がらせの挙げ句学校から追い出した生徒たちの一人であったから。前非を悔い、今では雑誌社の使い走りをするまでに落ちぶれたらしい道也の身の上を知り、更に偶然眼にした彼の所信を綴った文章にいたく共鳴した高柳君はあわよくば謝罪の意を表そうと道也の家を訪れる。しかし本題を言い出しかねながら身の上話に及ぶ高柳君に向かって道也は滔々と述べる。それは自意識過剰と周囲への不平不満が高じた挙げ句に「一人坊っち」の孤独に苛まれている高柳君の心に深く染み入る。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達を頼りにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違いになる事が出来て来ます。妻にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
しかし道也は「一人坊っち」は崇高なものである、とも云う。
「それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上がってくる平面です。(中略)同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らからは見くびられるのはもっともでしょう」
「わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために世のために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでのことです。こう働かなくっては満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。(中略)」
高柳君はまさに「人生の先輩」の姿を道也に見る。自分が歩まざるを得ない道を、明確に自らの意志で歩む先輩である。その共感と心酔は後日開催された演説会で最高潮に達する。冒頭の句は、「自己は過去と未来の連鎖である」。
封建的幕藩体制が倒れ新たに迎えた明治の世は未だ40年、草創期動乱の世の僥倖とも、終末期動脈硬化の世の倦怠とも無縁な、中期繁栄の世を築くべき人間たちには限りない自由と苦しみが待ち受けている。それは範とするに値しない幸運に恵まれた成功に彩られた草創期を見習うことなく、旧来の陋習に囚われた終末期の淀みとも無縁な中期を生きる人間の自由と苦しみである。理想も諦念も知らぬ者の自由と苦しみである。
「事実上諸君は理想を持っておらん。家に在っては父母を軽蔑し、学校に在っては教師を軽蔑し、社会に出でては紳士を軽蔑している。これらを軽蔑し得るのは見識である。しかしこれらを軽蔑し得るためには自己により大なる理想がなくてはならん。自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。現代の青年は滔々として日に堕落しつつある」
そんな現代は血を見ないだけの修羅場であるとも言う。四十年前の維新の志士にも勝るとも劣らない、命懸けの苦しみを味わわざるを得ない修羅場であるとも言う。自由であるが故の孤独と苦しみであると言う。そんな修羅場を押して生きる人々の理想とするものは各々千差万別である。この場に集まる吾々は学問をして知と道を究めたい、ある者は金を稼ぎたい、ある者は立身し出世したい。それでよい。知も道も金も権力も世間に利益を与えるのだから、金儲けも出世も卑しいものではない。しかしそれと同じ土俵で学問を云々するのは断固間違っている。
「(中略)今、学者と金持の間に葛藤が起こるとする。単に金銭問題ならば学者は初手から無能力である。しかしそれが人生問題であり、道徳問題であり、社会問題である以上は彼ら金持ちは最初から口を開く権能のないものと覚悟をして絶対的に学者の前に服従しなければならん。(中略)」
「一人坊っち」で苦しむ事への矜持と学問への賛歌に満ちた、まさに「野分」と形容するにふさわしい道也の大演説に高柳君の心は大いに奮えた。身体を病みながらも中野君から援助金を得た高柳君は借財返済を前に窮乏する道也の宅を訪れ、その金と引き換えに道也が著した原稿を買い取る。それは「一人坊っち」の人生の師と仰ぐに至った道也への心からの奉仕だったのだろう。
・・・けれどですね。あらすじは端折りましたが、この際の道也の借財返済云々は生活苦に耐え兼ねた道也の細君と道也の兄が打った芝居であり、困窮を眼前にさせることで再び安定した収入のある教職にでも復帰させることがその目的だったわけです。物語は高柳君が百円という当時としてはまとまった額の金を渡したところで終わっていますが、恐らくこの一事によって急場を凌いだ道也はまた一歩世間並みの安定した生活から身を退いたことでしょう。それはいいのですよ、むしろ先の演説に共感した身としては是非ともこのまま我が道を突き進んでほしいと思うところなのですが・・・。
やっぱりそれによって細君の不平と生活苦はこの後一層増したのだろうと思うと素直に「いやぁ感動した」で終われないわけですね。思えば自ら捨てたという形にしろ教職に絶望して挫折し、以後文筆で世を啓発しようとしたというのは作者漱石自身にも当てはまる、というかモロに自身がモデルであろうわけで、本作は先述したように彼の「学問賛歌」を謳った作品と読めるわけです。
金にもならぬ、名誉にもならぬ、しかし仮にも人間として生きるからには何よりも尊ばねばならぬ知と道を究めることの重要性。みんな大好き「効率と生産性」に背を向けてでも、これらを追求する人々が世に在らねばならぬ。本作はその道を選ばんとする男が巻き起こす野分の風の威力に満ちている。
で、それはそれとしてまったく御もっともなのだけれど、望んだわけでもないのにその道行につき合わされた細君を思うとなんとも言葉がない。彼女は贅沢がしたいというよりも、栄華を極めたいというよりも、ただもう少し楽な暮らしがしたいだけなのだ。野郎は多少食い詰めてもどうにかなろう、しかし社会に在って女はどうあっても弱く、また弱い立場に女を押しやっているのは野郎である。
道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。
家庭の生涯はむしろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治まらない。世間の夫は皆道也のようなものかしらん。みんな道也のようだとすれば、この先結婚をする女はだんだん減るだろう。
「結婚」などという人並みなことをするものではないのかもしれないなぁ、漱石せんせ…あ、いやいや、道也先生のような人は。
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