『夏目漱石全集〈1〉』【吾輩は猫である】〈人間の定義を云うとほかに何もない。ただ入らざる事を捏造して自ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。〉

夏目漱石
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今まで本を読み始めて以来、手当たり次第に好きなものばかり食ってきたけれど、自分には肝心要となるブンガクの素養がまったくない。必要な栄養素も摂らずに糖や脂や炭水化物をドカ喰いした挙げ句にブクブクとみっともなく肥え太ってきたようなもんである。みっともないのは己の身体と御面相だけで十二分なのであって、内面や教養ぐらい少しはシュッとしておきたいものと思う。

そういう思いで時々ブンガクのブの字を独学しようと古典作品に手を出す私だけれど、これまでことごとく挫折を繰り返してきたのだからまったく呆れるばかり。しかし今度ばかりは今度こそ古典作品の数々を系統だって読み進めて行こうと決意を新たにした次第。まずは古典作家のなかでは私がもっとも親近感を持つ夏目漱石から行ってみよう。ちょうど『夏目漱石全集』というお誂え向きなシリーズもあるのでこれを機に読み進めてみようと思い立った。まず第一巻は『吾輩は猫である』である。

猫君『猫』をかく語りき

どうやら我が主人は上記の様に大上段に構えた決意表明をしておきながら其の後一向精進の気配が無い様だ、大方飽きたのだろう。熱しやすく冷めやすいだけならまだしも折角余暇に充てられる時間を有意義に用いることなくぐうたらと漫然と消尽している毎日なのだからあの主人が何時まで経っても碌な者にならぬのは道理だ。吾輩も何時まで経っても碌な食扶ちに与れぬのも条理である。

しかしこのまま日本文学史に燦然と輝こうという本作が宝の持ち腐れと相成ってしまうのを拱手傍観しているのも忍びない。ここは一つ僭越ながら吾輩が、我らの同胞猫属の執筆したるという本小説を読み進めながら、気随にその感想を書き述べてみようと思い立った。主人同様教養など薬にしたくともない吾輩であるが、猫の書く文章に何物かの内容・見解を期待する方がどうかしているのである。

まず素猫目にも読んでいて愉しいのはその文章の流れるような調子であろう。落語や講談を聞いているように言葉が頭の中に滑らかに流れ込み、五百頁を優に越える大部の作であるというのに迷亭君の手繰り寄せたる蕎麦宜しくするすると呑み込めてしまう。我が主人などは傍らに吾輩しかいない時を見計らってはよく声に出してブツブツと朗読しては一人でクツクツと笑っている。吾輩がどんな目で見ているか知りもせず良い面の皮であると思う。

さて、『吾輩は猫である。名前はまだない』という有名な出だしで始まるこの物語、教師と聞けば立派だがその内実は教育教養があるだけ幾らかましとはいえ我が主人とどっこいどっこいな、まことにだらしのない主人の家に居ついたことから始まる。内容については有名な作でもあるし、主人の諸先輩方々の書評もあるしでわざわざ我が愚見を述べることもあるまい。

何?今しがた「読み進めながら」と書いたからには物語の一幕づつに其の寸評を加えようというのではないのかだって?

猫の言動を一々真に受けていてどうするのか。

まずその諷刺に富んだ描写と洞察、流麗且つ滑稽な文章中に引用される文言から窺い知れる深い教養の程には脱帽するばかりである。そしてつくづく思うは我ら猫属の可愛気である。以前主人の膝の上で同じく諷刺文学である『ガリヴァー旅行記』を盗み読んだことがあるが、始めのうちは面白がって読んでいたものの徐々にその余りに明け透けな社会に対する皮肉を通り越した悪口雑言に辟易したものである。

思うにあれは内容自体も去ることながら、其の語り手がむくつけき親爺であったことが大きな要因であろう。如何に文芸上のことであれど仮にも読者諸君が不平不満を抱きながらも息を潜めて迎合しながら生きている浮世の事をそう無闇にああだこうだと素っ破抜かれていては、始めの内は面白かろうが其の内飽きが来る。やがては辟易する。失礼無礼勝手気儘を言って除け、尚且つ愛嬌をも併せ持つだけの可愛気というものが人間、殊に所謂intelligentsiaたる親爺輩風情には無いのである。

そこへいくと我ら猫属の可愛気ときたらどうだ。如何に我らがつれなくしようと勝手気儘をしようと無礼千万を働こうと馬鹿な、もとへ、寛容なる人間諸君は猫の可愛気とむしろ我らを慈しむ種にさえする。まったく愚かな奇特なことであるが、このような我らであるから好き勝手なボヤキを書き綴り尚且つ愛されるという光栄に浴することも出来るのだ。試しに幾例か引いてみよう。

と思ったが該当箇所が余りに多いので止めた。吾輩は主人ほど暇ではではないし、元来気儘は猫の以てするところであるから読者諸君もそう額に八の字を描かず、これを機にもう一度本作を読み返されるがよかろう。

全編に漲る時に辛辣、時に皮肉、時に嫌味な諷刺的の事々を漱石だか送籍だか知らぬが髭を生やした大僧の親爺輩に言われていれば人間の方も鬱陶しかろうが、我ら猫属に言われる分には「いやぁまったくホント」などと笑って聞いていられよう。現にこの文を読む諸君らも、以上のような事々をむくつけき我が主人が駄弁っていたのならば鬱陶しい巫戯気るな真面目に書けいい加減にしろ本当に読んだのかこの馬鹿と罵詈雑言の限りを飛ばそうという気になるやもしれぬだろうが吾輩のようにlovelyな猫属が言う分には…

何、そうでもない?

充分に鬱陶しい?

何がlovelyだこの野郎?

まあ吾輩は日本文学史に名を残すほどの名猫でもなし、また家中でも有名な愛想無しだから仕方あるまい。過日も猫属垂涎の的と謳われたる銘菓チャオチュールに見向きもせなんだというので大いに幻滅せられたばかりである。閑話休題、「可愛いは正義」と今人の言にあるが善く云ったもので、物語も亦「可愛いは正義」なのだ。例えば『ガリヴァー旅行記』等は、 ―先程から世界的名作の一つである同作をまるで悪い例のように引き合いに出してスウィフト氏に祟られそうだが、吾輩の教養は我が額の如く狭小であるから他に手頃の例を思い付かぬので御寛恕願おう。― 始めは秀逸なる諷刺コメディとして愉しく読めたが、後半になるに及んで余りにもそのまんまな社会批判の数々が我等を辟易させた。如何な名洞察も面白くなくては形無しなのである。『抱腹絶倒一回は三段論法千回に勝る』という、古人が云ったか今人が云ったか、既に吾輩の脳髄から排泄されて失念したが、確かそんな言があったはずである。

そこへ行くと本作は徹頭徹尾軽妙洒脱に徹しているから偉い。intelligentsiaならば俗物蠢く社会及び己自身に対する辛辣な批判・諷刺の一つや二つは如何様にも思い着こうが、そこを豊富な教養や諧謔のオブラアトに包んで呑み込み易く料理し切ったところが凄まじい。世間を斜に見ることにかけては天賦の才を持つ我ら猫属の面目躍如というものであろう。

これほどまでに諧謔の気に長じたる猫君とは是非とも共に一献傾けたかったものと思う次第である。なに、猫君は酩酊の挙げ句に死んだのだからそんな物言いは不謹慎であろう? 否々、我ら猫属はこれでなかなか逞しいのである。ちょっとやそっと酔ったぐらいで死にはせぬ。あれは恐らくこれ以上の書き継ぎをご勘弁願いたいと思い立った猫君が採った窮余の一策なのであろう。

読んでいると実際最終章などは仰ることは御尤もなれども料理の仕方が少々そのまんまである。世の中に文句のあって風刺的作品の一つも思い付こうという先生方は矢張りどこかで我慢を切らしてそのまんまを遣りたくなるものなのかもしれぬ。しかし年端も行かぬ「坊ば」でもあるまいし、そうまんままんまでは読む方が遣り切れぬ。やはり猫君先生そろそろ潮時と見切って退却の策を弄したのではないかと愚考する。

つまり主人公たる自らを亡き者としてしまえばこれ以上執筆の注文を受ける義理は無くなろう。ついでにこれまで散々笑わせた人間共に最後に少しぐらいしんみりした心持を味わわせてやっても罰は当たるまいという思惑から思い立った結末に相違ないのである。

現に猫君と同時代に生きたる英国の探偵作家の某だって同様のことを目論んだではないか。あちらの方は仕損じてシャーロックだかニャーロックだか言う探偵の冒険譚書き継ぎを余儀なくされたそうだが、我らが猫君は見事やりおおせたというわけであるから天晴猫属の誉れと云わねばなるまい。多くの人間共が悲しみに暮れるなか、猫君きっと鼻を三角にして喉をごろごろいわせて笑っていたに相違ない。

屹度そうに相違ない。

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