『オペラ座の怪人』 ファントムが求めた愛のようなもの(原作・舞台)

ガストン・ルルー

「人に愛されるためにはまず自分から人を愛さねばならぬ」と言いますが、一度たりとも人に愛された記憶を持たない者が、それでも自ら先んじて人を愛することは可能なのでしょうか?

もしかすると愛情というものは投資に似て、適切な「銘柄」に適量の「種銭」を投入すれば適度な「利回り」とともに「投資家」を潤してくれるものなのかもしれません。しかし適切な銘柄を選び損ねた投資家、または適量の種銭を工面することが出来なかった投資家はその限りではないでしょう。

果たして愛情の「蓄え」がない人間に愛情の「先出し」は可能なのでしょうか? 「まずは自分から愛せよ」と言ったって、そもそも「愛し方」を知らない者はどうすれば良いのでしょうか?

生みの母親にすら忌み嫌われ、母と子の口づけすら拒まれ、その醜い顔を隠すための仮面だけが唯一の贈り物であったような男がいたとしたら、その男にとって「愛」などという言葉に果たしてどれほどのリアリティがあったのでしょう? それを求めるにしても、その男は本当に、自分が求めているものが何であるのか、理解していたと言えるのでしょうか?

彼が欲したものはもしかしたら、「愛」のようなカタチをした何か別のものではなかったのではないでしょうか?

あらすじ

パリを代表する歌劇場オペラ座で端役に甘んじていたクリスチーヌ。しかし自分だけに聞こえる謎の声に導かれて教えを受けたことでその隠された美声を開花させ、一躍歌姫として脚光を浴びます。

声の主はかつて亡き父が語った「音楽の天使」に違いないと信じるクリスチーヌでしたが、その正体は醜い顔を仮面で覆い、世を恨み人を憎みながらオペラ座の幽霊(怪人)として恐れられる謎の怪人物でだったのでした。

奇妙な師弟関係で結ばれた二人の関係はクリスチーヌの幼馴染ラウル子爵の登場によって恐ろしい結末に向かい始めて行きます・・・。

あんな男のどこが良い? ラウル子爵とファントム

さて、本作を読んでいて印象的なのはクリスティーヌが恋に落ちることになるラウル子爵の頼りなさ。舞台や映画作品では随分とマシな男になっているものの、はっきり言って原作の子爵は若さ溢れるだけで弱気ったれの軟弱者で思慮浅く、子爵様には恐れながら女に惚れることはあっても惚れられることはないんぢゃなかろうかと邪推したくなる殿方なのです。

さて困った。

そりゃあ世を憎み人を憎む怨念の煮凝りのような怪人ファントムにくらべりゃマトモな人間様だろうが、とても魅力を感じられる相手ぢゃあない。いったいクリスティーヌはこんな男のどこに惚れたというのでしょう? 舞台や映画でこそ勇敢な爽やかイケメンぶりがフォーカスされる子爵様ですが、原作での二人のやりとりときたら、なんだか迂闊な弟とそれに手を焼くしっかり者の姉のようでロマンスとしての魅力には大いに欠け、二人の恋路への共感なんて薬にしたくともない、という惨状だったのであります。ねぇクリスティーヌ、アンタこれってさー単なる幼馴染に対する「ヒヨコの刷り込み」なんじゃないかってアタシ思うんだけd…あ、閑話休題。

それでも思う。

どれほど軟弱で迂闊で弱気ったれで思慮浅きお坊ちゃんでも、ラウルはラウルなりにクリスティーヌのためを思い、彼女のためなら死をも厭わぬという利他的な思いやりは持って行動しているのです。一方の怪人はと言えば、その基本的な行動原理はとことん利己主義のカタマリ。クリスティーヌを鍛え上げたのも結局は自分の「作品」を作り上げたいがためのように見受けられるのであります。原作では「お前はわたしを愛さねばならないんだ!」とのたまい、舞台・映画作品では「歌え私のために!」と歌い上げちゃう怪人の心はどこまでも自分のことでいっぱいのようであります。

どれほど軟弱で迂闊d…(以下略)でも陽の当たる道を歩み他者を想うことが出来る男と、どれほど才能に充ち溢れていても陽の当たる道を憎み己のことしか考えられない男とでは勝負は見えているでしょう。

だからこそ父との貧しい生活を潜り抜けてきた苦労人クリスティーヌ・ダーエは、同じく苦労人であることから波長の合いそうな怪人よりも、幼馴染で心易いことぐらいしか取り柄のなさそうな苦労知らずのラウルお坊ちゃんを選んだのでしょう。誰しも過去と暗闇に囚われるよりは、未来と光差す方へと心惹かれるものではないでしょうか。

死んだファントムと消えたファントム

って、そう来られちゃ立つ瀬がないのが怪人であります。いくら身から出た錆とはいえ自ら手塩をかけて育てたクリスティーヌに割とあっさり背かれてしまった怪人の何がいけなかったというのでしょう? いや、いけない理由は先に述べた。要するに、彼は何がどうなって、あのような世を憎み人を憎む怨念の煮凝り、もっと普通の言葉を使えば、失うものなき「無敵の人」 ―原作ではクリスティーヌが自分を愛さないならばいっそオペラ座とその観客たちを道連れに自爆テロ”を決行しようとするほどの― になってしまったのでしょうか?

作品によって多くの設定がなされている怪人の背景ですが、原作ではエリックという名が与えられ、フランスはルーアン近郊の小さな町の出身とされています。あまりの顔の醜さに両親からも疎まれ、見世物小屋を転々とし、多くの奇術師やジプシーたちを通じて多くの芸能や奇術を身に付け、やがてその不可思議な能力を買われてペルシアやオスマン帝国の宮廷にも出入りするほどになりながらも諸々のいざこざに嫌気が差し、以降オペラ座の地下に居を構えるようになった、ということになっています。

どうやら彼はこの世に生まれ落ちてこの方、「人」として愛された経験を持たなかったようであります。生みの母は我が子の口づけをすら拒んで仮面を投げつけ、見世物小屋では客寄せクリーチャーとしてのみ「商品価値」を見出され、アジアの宮廷では不可思議な術を駆使する魔術師として脚光を浴びながらも一方的な理由で危うく命を奪われかけさえしたエリックであります。

一度たりとも「人」として愛されたことのないエリックがその心の空虚を埋めたいと願ったとして、いったい誰が彼にそのやり方を教えられたというのだろう? 一度たりとも思いやりに触れたことのないエリックが他者への思いやりに欠ける男であったとして、そこには何の不思議もないのではないだろうか? 仮に心の空虚を埋めたいだけの行為を「愛」と錯覚してしまったとしても、そこには何の不思議もないのではあるまいか?

以前夏目漱石の『道草』を読んだときに「他人の身体を使ったオナニーをセックスと勘違いするヤツがいるごとく、他人を通じて自分を愛することを愛と錯覚するヤツがいる」という下品至極な例えを思いついたのだけれど、原作・舞台作品を問わずこの物語における怪人/エリックを観ていて思うのもそこなのです。いったい彼は何を求めていたのでしょう?

クリスティーヌに愛されること? しかし彼は人を愛する/愛さない以前に、自分以外の人間を同じ生き物として認知することが出来ていなかったのではないかとすら私には思えます。

自分を好奇の目で嘲ってきた生き物、蔑みや敵意や悪意の目を向けてきた生き物。自分に仮面を付けて生きることを強い、そのくせ自分たちは仮面を付けて歌い踊り戯れているふざけた生き物・・・。そのようなものの一員に、彼は本当に「愛」を感じていたのでしょうか?

もしかしたらエリックが愛したのは自分が理解できる芸術的な「声」のみであって、クリスティーヌという人格は単なる附属品に過ぎなかったのかもしれない。

舞台版の怪人も、原作のエリックも、結局クリスティーヌを我が物とするためにはラウルを人質として「お前の愛する者を救いたければ私を愛せ」という本末転倒ぶりを晒しています。彼はとことん人の心や愛情というものを理解していない。そんな彼もさすがに形だけは彼女の「愛」なるものを手に入れた時、はじめて自分の行為の虚しさを心から感じ取る事が出来たのではないだろうか?

物語終幕にクリスティーヌは怪人に口づけし、彼のために涙を流す。しかしそれは不遇な人生を歩み誰からも愛されることのなかった不幸な男に対する憐みであり、いくら人間心理に盲目なエリックも自分に向けられた「愛」と「憐み」の違いを痛感したのではないだろうか。エリックがなによりも心を動かされたのは彼女が自分の顔を直視し、自分のために泣いてくれたことだったのだから、そもそも彼が求めていたのは「女の愛」などという仰々しいものではなく「誰かからのやさしさ」に過ぎなかったのでしょう。 

「(中略)わたしは彼女の涙を一滴も失うまいとして仮面を脱いだのだ・・・ところが彼女は逃げなかった!・・・彼女は死ななかった! 生きたまま泣いていた・・・わたしの上で・・・わたしと一緒に・・・わたしたちは一緒に泣いたのだ!・・・天にまします主よ! あなたはこの世のすべての幸福を与えてくださったのだ!・・・」

原作小説より抜粋

原作のエリックはクリスチーヌとラウルの関係を祝福し、ひっそりと死んで行きます。舞台・映画版の怪人はクリスティーヌとラウルを地下迷宮から解放し、恋の終わりを歌い上げてこの世から消失する。世を恨み人を恨みながら、それでも世に容れられ人に愛されてみたいという未練を断ち切れずにこの世を彷徨っていたエリックという名の「幽霊」は、クリスティーヌによって煩悩を充たされて「成仏」できたのかもしれない。地獄の業火に焼かれながら天国に憧れた怪人は、ひとときの天国に触れたことでこの世に爪を立て牙を剝きながらしがみつく必要をもはや感じなくなったのかもしれなません。

はっきり言って色恋に一切のロマンスを感じ取れない人非人の私も、この終幕には涙腺を熱くしたものです。なぜならどれほど自分が場違いなところに存在していると頭に分かっていても、そして諸々の体験を通じて心から腑に落ちるようになっても、あれほど美しくこの世を立ち去ることなどファンタジーの作り事でなければ不可能な結末だからなのです。

原作? 映画? 舞台? それぞれの魅力

不朽の名作である本作は大きく原作小説、映画作品、そして言わずもがな劇団四季による舞台作品と三つのメディアによって味わうことができます。どれもそれぞれに異なる魅力を持っており、三つの異なる表現を味わい比べてみるのも愉しいでしょう。

【原作小説】19世紀の作品ということで現代人には荒唐無稽さや冗長さ、退屈な箇所があることは否めませんが、怪人の人物像や内面描写への肉薄は読み応えあり。

【映画作品】2004年にジェラルド・バトラー主演で映像化された作品。映画ならではの圧倒的映像美が魅せる名作。ファントムにまつわるファンタジー色を排した現実的解釈に好き嫌いが分かれるかもしれません。

【舞台作品CD】言わずと知れた劇団四季による舞台作品のミュージカルオーケストラCD。千秋楽を間近にもはや予約も難しい名舞台をもう一度味わえます。母語で接することによってファントムの哀愁により一層寄り添うことができるでしょう。

【舞台作品Blu-ray】元祖舞台化作品の25周年記念公演を収めたBlu-ray。「メガミュージカル」の先駆けと称される豪華絢爛な舞台装置の数々はまさに圧巻。

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