ゲーテ『若きウェルテルの悩み』〈こんなものが、恋でたまるか〉

ゲーテ

この小説は発表された18世紀のドイツ分断にとてつもない衝撃を与えた作品であったと言います。手元にある新潮文庫『若きウェルテルの悩み』巻末解説によれば本作は「これまでの小説の常識を完全に打ち破る作品」であり、更には「この作品によって自殺が流行しさえした」とのこと。

当時の良識ある人々からは「精神的インフルエンザの病原体」というステキな禍々しい評言を頂いたらしい本作はしかし多くの人々の心もつかみ、あのナポレオンも愛読していたと言われています。

いったいここまでの毀誉褒貶にさらされている本作は何ものなのでしょう? それはそれは刺激的な凄まじい物語なのでしょうか?

ゲーテ自身の絶望的な恋の体験を作品化した書簡体小説で、ウェルテルの名が、恋する純情多感な青年の代名詞となっている古典的名作である。許嫁者のいる美貌の女性ロッテを恋したウェルテルは、遂げられぬ恋であることを知って苦悩の果てに自殺する・・・。多くの人が通過する青春の危機を心理的に深く追究し、人間の生き方そのものを描いた点で時代の制約をこえる普遍性をもつ。

とは同じく新潮文庫『ウェルテル』の背表紙解説。以上を読んで拍子抜けした方もいるのではないでしょうか? なんだただの恋愛小説じゃないか、と。

実際私が読まず嫌いしていた当時のイメージも古典的恋愛小説というもので、大時代な恋愛観と大げさな感傷に充ち満ちたイタい小説で、文章の美しさあたりで評価されている古典作品に過ぎないのではないかという単純な印象を抱いていたのでした。ところが本作を一読すれば、末尾の「時代の制約を越えた普遍性」の意味が判然飲み込め、私は本作に深く引き込まれたのでした・・・。

時を越えられないロッテ

しかししかし、本作は約250年近く過去のしかも外国の小説なので、やはり現代っ子が読むにはなんともシンドい個所があります。細かな文化や時代背景の差異に戸惑うのは当然としても、やはり最大のネックは主人公ウェルテルが恋した美貌の女性ロッテの現実味のなさではないでしょうか。一人の人間としての現実味が感じられないのですね、要するに。

ウェルテルにとってロッテはどんな女性でしょうか。美しいことが目を惹いたのは当然として、早世した母の代わりに幼い弟妹たちの世話を献身的に行い、その物腰は常にやわらか。いかなる時もウェルテルにやさしく接し、おまけに教養豊かで話も合う・・・。

余りにも理想的な女性像。意地悪な言い方をすれば、自分を傷つけず、否定せず、おまけに自分が好きなお話にも付き合ってくれる都合の良い女性像。結局「母親」の役割を果たしてくれる女性でしかないのです。

男は所詮いくつになってもマザコンだ、という言葉もあります。確かに世の中の男どもは女性に「母」を求めてしまうのだという意見を認めるにもやぶさかではありませんが、それにしたってこれほどの「聖母」への憧憬に共感するのはせいぜい中高生までと言ったところではないでしょうか?

正直私は本作を読んでいてウェルテルのロッテへの思慕を理解も共感もできず、単にうわっすべりな「ロッテ推し」描写の数々に激しい退屈を催したのでした。ここに関しては如何ともしがたい「時代の制約」の壁が私を圧倒しました。しかし・・・

時を越えるウェルテル

片や主人公ウェルテル自身の人物像はどうでしょう。はっきり言ってこの世間知らずのガキンチョは魅力的な人物では一切ありません。人生経験がないものだからひたすら理想主義的かつ内省的な性格なものだから教養や感性だけは人並み以上にあり、しかしそれがために実務的な人間に対する軽蔑を隠せず対人トラブルを招きやすく、少しの理不尽にもすぐ怒りをあらわにする。せっかくの就職先も上司とのいざこざが発生するや直ちに辞めてしまう・・・。

「イマドキの若いヤツはまったくもう・・・」とありとあらゆる時代でボヤかれる典型的な『イマドキの若いヤツ』。つまり少しばかり感性豊かで頭も良いが、それを帳消しにしてしまうほどコミュニケーション能力と辛抱に欠ける若者。それがウェルテルなのです。この人物像だけは全く本当に嫌になるぐらい「時代の制約をこえる普遍性をもつ」存在ではないでしょうか。

きっと私はこうだった、思い出すだに身悶えしそうだ。もしかしたら未だにこうかもしれない、穴があったら入りたい・・・。

さぁあなたはどうでしょう?

「味変」で変わる『ウェルテル』

もしもあなたがかつての私のように「ウェルテル坊や」の人格に心当たりがあるならば、思い切って「恋愛を描いた小説」という前提は忘れてロッテへの思慕を別のものに置き換えて読んでみてはどうでしょう?

私は以前夏目漱石の『こころ』を読み解く作業中に「恋」という文字の面白い成り立ちを知りました。「恋」とはそもそも「孤悲」と書き、その原義は

「目の前にない対象を求め慕う心情を言うが、その気持の裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある」

というのです。欲しくて欲しくて堪らないが、手に入れられないもの。それがために悲しみを感じるほど切ない思いにさせられ、狂おしい激情に駆られさえするもの・・・。それは「愛する人」に限らず、人によって無数の対象があるでしょう。そしてそれを欲する気持ちはどこから発するのかというと、各々の承認欲求から、ということになるでしょう。

冒頭で触れたように、本作はナポレオンも愛読していたと言います。かつてフランスを支配し皇帝にまで昇りつめた彼にとっては例えば地位や名誉、権力こそが「私のロッテ」だったかもしれません。激情に憑りつかれたウェルテルの怨念とも言えるこころの動きに、同じく「ロッテ」を激しく求めるナポレオンは共感したのかもしれません。

私のロッテはなんだろう? あなたのロッテはなんだろう? 本作が発表された当時の人々にとってのロッテはなんだったろう?

そしていつまでも「ロッテ」を手に入れられないことへの焦りは立派にその人をノイローゼに陥らせる理由になりはしないでしょうか? ましてやそれが絶対に手に入れられないとわかってしまったときの絶望は?

現代に通じる文脈

その絶望は人を死に追いやることもできるだろうし、死んだように生きる無気力に誘いもする。もしかしたら、すべてを周囲や社会のせいにしてルサンチマンを燃え上がらせた挙句の果てに、無差別殺人やテロ行為に走らせる原動力にだってなり得るかもしれないのではないでしょうか?

ロッテへの絶望的な情念に憑りつかれたウェルテルの神経は時を追うごとに病的な度合いを増して行き、そのこころはとうとう「死」の一文字に向かってひた走って行きます。

 かつて俗世間での交渉において彼がなめたいっさいの不快事、公使館勤務での憤慨、その他彼が失敗したことのすべて、かつて受けた侮辱、そうしたことすべてがウェルテルの心の中を浮きつ沈みつした。彼は考えた。こうしたことすべてを味わわされた自分であってみれば無為に陥るのも当然だ、自分はいっさいの未来の見通しから切断されてしまった身だ、自分には俗世の活動をするための手がかりをつかむことができないのだ。こうしてウェルテルはじりじりと悲しい最期へと近づいて行った。

前述のようにウェルテルの人となりは社会人として生きて行くにはかなりハードルの高いものでした。社会生活の泳ぎ方を知らず、そもそもそれを覚えるつもりもなく、かといって家柄や財産というもので守られているわけでもない。ウェルテルの厭世観はロッテと出会わずとも遅かれ早かれ必ず芽生えていたものではないでしょうか?

そんなウェルテルにとってロッテは、唯一この世界を生きるに値するものだと思わせてくれる存在であったかもしれません。そしてその存在が永遠に自分の手の届かないものであることを思い知れば思い知るほど、自分がこの世に存在する理由は薄れて行くのです。

もしも現代の作家が現代を舞台に現代人を主人公とした『ウェルテル』を書くとしたら、「悲しい最期」はもしかしたら無差別殺人だってあり得るかもしれない。承認欲求を充たす道を閉ざされた人間を待ち受ける「悲しい最期」は、必ずしも自殺とは限らないのではないでしょうか?

私たちが時に目にしては心を痛めるあの事件やこの事件を起こした人々もまた、憎むべき犯罪者であり、憐れなウェルテルでもあり得るのかもしれません。本作の底に流れる文脈は、いまでも確かに私たちの心をつかみ得るものと考えます。

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