私とシルヴェストル爺さんの罪深き生活
「年がら年中本ばかり読みながら誰にも会わずに引きこもっていたい」というのが私の年来の夢であります。「知らねぇよ だ か ら 何 だ よ 」と言うなかれ。一応本書と関係なくはないんだからまぁちょっと聞いてちょうだいよそこのあなた。
悲しいかな他者と交わることが出来ない人間、交わらぬ方が我も彼も幸福という人間は存在すると思っています。他人のことを言っているのではなく自分のことを言っているのだから間違いない。なにもその種の人間の性格の良し悪しや人格の高低を言うのではない。ただただ「無理なものは無理」と言っているに過ぎないのです。これはアレルギーに例えると分かりやすいでしょう。
牛乳やヨーグルトがいかに体に良く滋養に富むと言ったところで、乳製品アレルギーの人間に牛乳やヨーグルトを飲み食いさせれば最悪その人は死んでしまいます。飲み食いさせられた人が大迷惑なのはもちろんのこと、飲み食いさせた人は事情を知らなかったならば良心の呵責に苦しむことになり、事情を知っていたら犯罪者となります。きっと飲み食いされた牛乳やヨーグルトだって浮かばれない。
まったくもって誰も彼も浮かばれない。
だから体に良い生活を心掛けるにしても、己が乳製品アレルギーであると承知ならば潔くそれらとは距離を置き、周囲にも周知を徹底し、「好き嫌いはいけませんよ」などと抜かす輩とは一切の交際をば断絶し、それに代わる食物で有用な栄養素を摂取することが肝要です。
これは心に良い生活を心掛ける上でも同じではないでしょうか? 己が人と関わるべき人間でないと承知ならばそれらからは潔く距離を置き、周囲にも周知を徹底し、「外に出なきゃいませんよ人と仲良くしなきゃいけませんよ」などと抜かす輩とは一切の交流を断絶し、それに代わる精神生活で有用な心の栄養を摂取することが肝要ではないでしょうか?
しかし忘れないで欲しいのは、そういう類の人々は他者に対して悪意や害意など持ってはいないということです。苦手なもの嫌いなものに必要以上立ち向かうことなく、必要最低限の礼儀を守り、可能な限り他所様に不快な思いをさせずして、ささやかながら心の平穏を得られる場所を手に入れることが出来ているというに過ぎないのです。
例えば私は赤の他人が見るならば何が面白いのか分からない穴倉の中に住まうような生活をし、何が面白いのか分からない「本」などという文字の羅列に淫している奇妙な生き物です。しかし当の奇妙な生き物は周囲をこそ珍妙な生き物と思い定め、そんな生き物どもの目には見えない心の静けさに結構満足しているのです。
しかししかし、それでも時に惑うことぐらいはある。
私はその心の静けさと引き換えに、これまで何を失ったのだろう?
馬の手足が一本指なのは環境に応じた進化でしょう。ミミズに手足や目鼻がないのも環境に応じた進化でしょう。馬は五本指の手足を役立たずと嗤うだろうが、ミミズは手足や目鼻を役立たずと嗤うだろうが、やっぱり時には私と同じように五本指の自分や手足や目鼻がある自分を思い浮かべて心揺るがす酔狂なヤツの一匹や二匹はいないものかと思うのです。
「人」の「間」と書いて「人間」であると言うならば、人の間に住まいながらその恩恵を受けて生かされておきながら、そこに参加しそれに報いようとしないのは罪でしょう。無上の甘美を与えてくれる書物と過ごす時間は愉しいけれど、私はそれと引き換えに随分と人間社会の明るい陽射しに背を向けてきたように思います。
本書を読んだ私はそんな因果な自分の性向と、生涯を本の虫として過ごし生身の人間より既に死に絶えた太古の人々との交流で忙しそうな主人公シルヴェストル・ボナール爺さんの性向とに相通じるものを見たのでした。
本書が出版されたのは1881年。作者アナトール・フランスは芥川龍之介も傾倒したというフランスの文学者であり、老境の古典学者を中心人物とする円熟味この上ない本書を著したのはなんと37歳の時であったといいます。まぁそんなことはどうでも良いのです。
あらすじも大したものではありません。人生を中世教会史に捧げて色も華もない暮らしを送り続けてきた老人の人生の終幕に訪れたささやかな、しかし決して小さくはない波乱が静かに静かに描かれます。
本書で描かれる時代は1874年から1877年。人間様が住まう社会では普仏戦争が終わり、パリ=コミューンの成立と崩壊が起こり、まさに大波乱の直後ですが、人生のほとんどを古代や中世世界に捧げてきたシルヴェストル爺さんの脳髄にそんな俗事が入り込む隙間はないのです
福音ジャンヌ。そしてシルヴェストル爺さんの救い
教会の歴史と古文書の研究で成り立っているようなシルヴェストル爺さんですが、爺さんは生まれた時から爺さんだったわけではなく、若いころには一人前に惚れた女性の一人もあったのでした。そして本書で繰り広げられる冒険らしい冒険は、ひとえにその女性クレマンチーヌの孫娘ジャンヌ・アレクサンドルをめぐるものとなるのです。
ジャンヌは豊かな天分と感受性に恵まれた少女でありながら、両親が困窮の内に死没した
ことで心根善からぬ後見人ムーシュの支配下に甘んずることになり、その差配で鈍物教育者プレフェール女史が管理する女学校での息の詰まる生活を強いられております。女学校での生活と言っても財産なき彼女に用意されていたのは事実上使用人と呼ばれるべき生活に過ぎませんでした。
かつて愛した女性の忘れ形見がこのような扱いを受けていることに憤慨するシルヴェストル爺さんはしかし、悲しいかなこれら打倒すべき世知辛い俗物どもを合法的にやっつける算段がどうにもつけようがなかったのでした。そして思いつめたシルヴェストル爺さんがとった手段とは・・・
さて、この緩やかな勾配の物語で何が感動的と言って、古典研究に倦み疲れたシルヴェストル爺さんが「自然」に心を開く場面です。物語も後半にさしかかろうという頃合い、学びをともにした老学究の一人の葬儀を終えたシルヴェストル爺さんは一人物思いにふけるのでした。
私はかしわの若木の茂みの下、道の木かげに腰をおろした。そしてそこで私は、いつか再びかしわの木かげに腰かけて、広野の静寂裡に霊魂の何たるかを思い、人間の究極目的を思うときまではけっして死ぬまい、いや少なくとも死ぬことを肯んじまいと覚悟した。一匹の蜜蜂が、さながら古金の甲冑のように茶色の胴を日にかがやかせながら飛んで来て、こんもり茂った茎のうえに鬱然と咲き誇っているあおいの花にとまった。こんなありふれた光景を見るのは、むろんこれが初めてではないが、これほどの愛と知を傾けてつくづく眺めるのは初めてである。私は虫と花とのあいだに今の今まで気づかなかったさまざまの共感があり、数かずの巧緻な関係があることを認めた。
「さようなら」と花や蜂にいった。「さようなら。何とかして、お前たちの調和の秘密が探れるまで生き長らえていたいものだ。私は疲れ切っている。しかし人間というものは一つの仕事の疲れをまた別の仕事でしか癒せないようにできているのだ。もし神様のおぼしめしによって、文献学や古文書学研究の疲れを休めてくれるものがあるとしたらそれは花と昆虫だ。(中略)」
これは単にインドア老人シルヴェストル爺さんがアウトドア派に転向したというに留まらず、太古の遺物だけを相手としてきたシルヴェストル爺さんが、今このときを生きる生命どうしの関係性の重要性に目覚めたと言うことができるでしょう。
シルヴェストル・ボナールの「罪」とは人間でありながら人間社会に参加することなく、過去に生きた人間たちをまるで標本のごとく蒐集分類整理しようという学者の不遜であり、それによって生きた人間どうしの関係から零れ落ちる孤独がその報いであり「罰」ではなかったでしょうか? いにしえの死物に塗れてうごめくシルヴェストル爺さんは、地獄に舞い降りたベアトリーチェのごときジャンヌに巡り合うことによってその罪を雪ぐことができたと言えるのではないでしょうか?
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