カフカ『断食芸人』 これは私たちの物語

カフカ

断食がエンタメ?

本作は20ページにも満たない短編小説です。カフカといえば『変身』や『審判』『城』など一見不可思議・不条理な物語を描く作家というイメージが一般的かもしれませんが、本作の世界もまた不可思議です。なにせ「断食を見物すること」が流行している世界なのですから。

人々はいったい何が面白くて他人の断食など見物するのでしょう? 物語世界ではそれを「断食芸」と呼び、それに携わる人々を「断食芸人」と呼びます。その人気は大変なもので、興行が行われるたびに街はその話題で持ち切り。なかには夜も日も問わず数日にわたって「断食芸」を眺め続ける人すらいるといいます。いったい何を考えているのでしょう?

しかしそういう我々もまた彼らを笑える身でしょうか? 我々もまた「断食芸」に熱を上げる人々と同じく、他者から見れば不可解な熱狂に身を任せてはいないでしょうか? 例えば自分には理解できない趣味に情熱を傾ける人々。例えばテレビ画面の向こうのから騒ぎとそれを見て爆笑する人々etc…我々は皆、自分には理解不能なものに熱中する人に戸惑いながら、そのくせ自分もまた他者には理解不能な情熱を燃やしては同じく不可解な目で眺められてはいないでしょうか?

だとすれば他人の断食を眺めることを最上の娯楽とする人々がいたとしても不思議はない(?)のです。それより気になるのはそもそもなぜ「断食」などというものを「芸」にしようとした人がいるのか、ということではないでしょうか?

断食芸人の不満

老若男女を問わず人気者である断食芸人はしかし常に不満を抱いています。その理由はといえば、

自分にはもっと長期間断食ができるのに・・・

他人からの称賛なんていらない・・・

というもの。いったいどういうことでしょう? まず断食芸は40日を限界とするルールがあります。それ以上の断食は芸人たちの健康に悪影響を及ぼすから・・・ではなく、それ以上断食をしていても観客のほうが飽きてしまうから、という理由です。40日の断食を終えた断食芸人は華々しいセレモニーとともに観客たちの前に引き出されて喝采を浴びるのです。

にもかかわらず、当の断食芸人には不満しかありません。なぜもっと断食をさせてもらえないのか。喝采されている自分は実力を出し切れていない不十分な姿に過ぎない。なのにそんな自分のブロマイドまで売り出しやがって! 断食芸人の不満は留まるところを知りません。しかし憔悴しきって声すら出せないでいる断食芸人の思いをよそに、興行主は感謝の言葉を「代弁」し、観客たちはそれに応えて歓声を上げるのでした。

そんな不満を抱きながらの栄光の日々は長く続きませんでした。時の移ろいとともに断食芸の人気は衰退。かつて多くの人々を魅了した見世物はとうとう誰も見向きもしない「過去の遺物」となってしまったのでした。主人公の断食芸人も職を追われ、サーカス団の一人として雇われることでどうにか居場所を確保するのがせいぜいでしたが、もはや過去の人である断食芸人は誰の注目を集めることもできず、サーカス団員たちからも忘れられる日々を過ごすこととなります・・・。

しかしこのとき断食芸人は人生でもっとも充実した時を過ごすことになります。なぜならここでは「本当に断食をしているのか?」という邪推や、「本当は辛いのによく頑張っている」というお節介に苛つかされることなく、40日という期限に縛られることもなく、自分が満足行くまで好きなだけ断食ができるのです。観客からの喝采や評価がないことなど苦にもなりません。彼にとって断食ができることこそが最上の喜びだったのですから。

そんな断食芸人は多くの忘れ去られた月日の後にサーカス団員たちに「発見」され、頭のおかしくなった男と嘲笑われながらその生涯を終えます。そしてその間際、ついに彼の口から「断食」の本当の意味が語られることとなります。

私たちはみんな「断食芸人」

「それは、せざるをえなくて断食しているからさ、ほかにどうしようもなくってね」

美味いと思う食べ物が見つからなかったからなんだ。見つかってさえいればな、世間の注目なんぞ浴びることなく、あんたやみんなみたいに、腹いっぱい食べて暮らしていただろうと思うけどね」

これこそ断食芸人が「断食」を生業とする理由だったのです。「食べたいと思うものがないから食べない」馬鹿馬鹿しいようでいて、実は我々皆が身につまされる理由ではないでしょうか? なぜならこの感覚は「表現欲求」に駆られる人々の理由と同じであると思うからです。

なぜ人々は自分を表現したがるのでしょう? 周囲と同じようにしていれば誰かにとやかく言われることも、余計なトラブルを引き起こすこともありません。それでも人は「炎上」のリスクと引き換えに自分の意見や意思といったスタイルを表現したがります。

その根底にあるのは周囲に対する違和感ではないでしょうか? 自分とは異なる存在に囲まれて生きることの違和感や生きづらさ、そこまでネガティブなものでなくても周囲とは異なる自分独自のイマジネーション。それらを誰にも知られることなく死んで行くのは多くの人々にとって耐えがたいことではないでしょうか? だから私たちは多かれ少なかれ「自己表現」などというめんどくさいことをやりたがるのではないでしょうか?

  • 断食芸人:みんなと同じように食べ物を味わえない
  • 私たち:みんなと同じように物事を楽しめない

  • 断食芸人:だから食べないことに魅力を感じる
  • 私たち:だから自分が魅力を感じることをする

  • 断食芸人:それが周囲には珍しく、評価される
  • 私たち:それが周囲には珍しく、評価される

  • 断食芸人:それがアイデンティティとなる
  • 私たち:それがアイデンティティとなる

という風に。しかし表現にはジレンマがあります。自分が好きなものを好きなように表現しているだけで成功できるのは限られたごく一部の天才だけでしょう。多くの表現者は様々な葛藤の末に、観客に「ウケる」ように工夫して表現することに迫られ、時には不本意な形に終わることもあります。

思えば本作における興行主の存在は作家に対する編集者、芸能人に対するマネージャー、動物に対する調教師の関係と同じく、表現者の欲求を世間の人々のニーズに合わせて調整する存在であったように思えます。断食芸人はこの厄介者の頸木から逃れたことで思うさま自分のやりたいことをやりたいように行う自由を得、しかし世間からは忘れ去られた無用の人として生涯を終えることとなります。

私たちもまたこの断食芸人と同じく、美味いと思う食べ物を見い出せずに日々「断食芸」に励んではいないでしょうか。そして周囲の無理解や曲解に惑わされながらも我が道を貫いてはいないでしょうか?

一見不可解な人生を送ったかに見える断食芸人の姿は、実は「表現」する欲望に駆られやすい私たちの似姿なのかもしれません。不満を抱きつつも一世風靡の人気者として栄光に包まれるのか、自己満足に包まれながらサーカスの片隅でひっそりと息を引き取るのか、それは誰にもわからないことでしょう。

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