芥川龍之介『猿』 叩かれる孤独と叩く孤独

芥川龍之介

私はかつて、聖書を愛読しているにもかかわらず信仰心は持っていなかったという芥川龍之介のキリスト教観を不可解なものだと思っていましたが、今ではこの両者は矛盾することなく両立しうるものであると確信しています。

神を信じない者がそれでも宗教に関心を寄せる理由はなんでしょう? 神の存在を前提とする人々が、それによって混沌に充ちた予測不能なこの世界をどう見つめ、どう解釈し、どう歩むべきと考えているのかという思考に思いを馳せることにあるのではないでしょうか? 論理が支配する哲学よりもはるかに感情に訴えかけてくる宗教が持つ熱量は、人間を突き動かす「切実」に対して、適切かどうかは分からないながらもより強烈な示唆や共感をもたらすのではないでしょうか?

この物語は明らかに聖書中の「このなかで罪なき者が石を投げよ」と「人を裁くな、あなたが裁かれないためである」という言葉を念頭において作られているように思います。とはいえ私は何も、本作はキリストの教えを説く寓話であると言いたいのではありません。キリストの教えに代表されるこれらの言葉が考え出された背景にある、そしてこれらの言葉に共感した多くの人々の心の背景にある、「切実」に対する洞察こそが、本作の魅力であると言いたいのです。

あらすじ:猿と罪人

本作は10頁ほどのごくごく短い短編です。しかもそのあらすじたるや「とある軍艦内で発生した窃盗事件の犯人を見つけて取り押さえた」というだけの単純明快なものに過ぎません。そこには犯人をめぐるミステリーや息詰まる追跡劇やどんでんがえしの結末もありません。物語はただそのように進み、そのように終わるだけです。

語り手となるのは若き海軍士官候補生。ある日彼が乗り組む軍艦で窃盗事件が起こり、捜査の結果、奈良島という名の水兵が犯人であったことが判明します。しかし奈良島は艦内で行方知れずになってしまいます。

当時軍艦内での窃盗事件は珍しくなく、その多くは犯人の自殺という結果で幕を閉じたようですが、同様の結果を恐れた上官の命令によって語り手の候補生とその友人たちは総出で犯人奈良島の身柄確保に奔走します。そんな彼らの胸中に渦巻く思いは卑劣な窃盗犯への怒りでもなく、自殺の恐れのある人物への慮りでもなく、ただひたすらな高揚感だったのでした。

火事を見にゆく野次馬の心もち――丁度あんなものです。巡査が犯人を逮捕しに行くとなると、向うが抵抗するかも知れないという不安があるでしょうが、軍艦の中ではそんな事は、万々ありません。ことに、私たちと水兵の間には、上下の区別と云うものが、厳として、――軍人になって見なければ、わからないほど、厳としてありますから、それが非常な強みです。

自分に絶対に手向かいする恐れのない相手を「犯罪者」として追い立てる興奮に支配された候補生たちは、まるで狩り場に解き放たれた猟犬のように嬉々として奈良島の行方を追います。さらに近頃彼らの身の回りで起こったある出来事との連想が、一層この追跡劇を面白いものにしていたのでした。

それは艦内で飼われていた猿にまつわるエピソード。飼い主である将校の部屋を脱走して物を盗み回るという悪さを働いたその泥棒猿を、今回と同じく乗組員たちは総出で探し回り、やっとの思いで捕えたという記憶との符合が彼らをより面白がらせ、奈良島を「猿」に見立てた候補生たちはいよいよこの「狩り」に興奮し、面白おかしく互いを鼓舞し合うのでした。

周囲の者たちと同じく興奮に突き動かされながら奔走する語り手の候補生は、人気のない石炭庫でいままさに自殺せんとする奈良島を発見して勇躍取り押さえますが、その瞬間に垣間見た彼の表情に激しい衝撃を受けさせられたのでした。

私は、あんな顔を、二度と見た事はありません。悪魔でも、一目見たら、泣くかと思うような顔なのです。(中略)私は、小説をお書きになるあなたの前でも、安心して、これだけの事は、云いきれます。私がその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のように、たたき壊したのを感じました。それほど、この信号兵の顔が私に、強いショックを与えたのです。

奈良島とは赤の他人である候補生は彼がどのような事情で盗みを働いたかを知る由はありません。しかし罪の発覚を恐れ、恥じ、自殺を図るほど追い詰められた彼の表情を見て、この「犯罪者」は猿ではなく自分と同じ心を持つ人間であるという現実に打ちのめされるのです。

「貴様は何をしようとしているのだ。」

 私は、機械的にこう云いました。すると、その「貴様」が、気のせいか、私自身を指している様に、聞こえるのです。「貴様は何をしようとしているのだ。」――こう訊ねられたら、私は何と答える事が出来るのでしょう。「己は、この男を罪人にしようとしているのだ。」誰が安んじて、そう答えられます。誰が、この顔を見てそんな真似が出来ます。

捕らわれた奈良島は海軍監獄へと送られますが、そこは「弾丸運び」なる懲罰が横行している所でもあったようです。離れたところにある台から台へとひたすら大砲の弾丸を運ばせるまったく無意味な反復動作を強要するもので、大いに囚人たちの心を摩耗させる精神的拷問です。候補生は罪の報いとはいえ奈良島をそのようなところへ追い立てた自分の行いに激しい当惑を覚えたのでした。犯罪者を捕え罰を受けさせるのは当然のことである。しかし・・・ 一人葛藤を深くする候補生の心は、相変わらず奈良島を面白おかしく猿扱いにする友人の無神経な一言に思わず激昂します。

「奈良島は人間だ。猿じゃあない」

彼の心の変化を知る由もない仲間たちの怪訝な表情に決まりの悪くなった候補生は、ひっそりと足音も立てずにその場を去ったのでした。

人を裁く楽しさ

さて、人の罪を暴き立て、言い立て、責めるのは楽しいものです。こう言っては語弊があるでしょうが、他者の許し難い犯罪行為から日々のささやかなルール違反に至るまで、これらの「罪」を犯した人々をバッシングするときの高揚感や快感に身に覚えのない人はいないでしょう。罪を犯した者、ルールを破った者を非難する合唱に加わることは最高の娯楽の一つと言えるでしょう。

しかし快感や楽しみの裏には必ず罪悪感と背徳感が存在します。厳粛な面持ちを崩さず他者の罪悪や過ちを責め立てる私たちは、時にふと自分が興奮による薄笑いを浮かべていることに気付いて慄然としはしないでしょうか? 賢しらに人を裁いている自分への嫌悪感。否、賢しらに人を裁いている自分の高揚感に対する嫌悪感、そして罪悪感。義憤によって人を裁いているつもりが、そのじつ私憤を晴らすために手頃な相手を裁いているに過ぎないと感じた時の虚しさ。叩かれる者の惨めさと孤独よりも見えづらい、叩く者の惨めさと孤独

丁度、その時です。「面目ございません。」――こう云う語が、かすかながら鋭く、私の耳にはいったのは。

 あなたなら、私自身の心が、私に云ったように聞こえたとでも、形容なさるのでしょう。私は、ただ、その語が、針を打ったように、私の神経へひびくのを感じました。まったく、その時の私の心もちは、奈良島と一しょに「面目ございません」と云いながら、私たちより大きい、何物かの前に首をさげたかったのです。私は、いつか、奈良島の肩をおさえていた手をはなして、私自身が捕えられた犯人のように、ぼんやり石炭庫の前に立っていました。

自分が抱える愚かさに気づいたとき、しかもそれを理性によっても知性によっても克服しがたく持て余したとき、人は自分よりもはるかに大きい何物かの存在を仮定して、それを罰してもらいたいと思うのかもしれません。

猿は懲罰をゆるされても、人間はゆるされませんから。

罰を免れる事が出来る代わりに人間より劣る獣と同列になるよりも、罰される苦痛を味わう代わりに人間として尊厳を保ちたい。人間の頭に「神」や「宗教」が閃くのは、そのような瞬間なのかもしれません。

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