ハンス・ギイベンラアトはなぜ死なねばならなかったのだろう?
本書を読んだ人々の最大の疑問はこれに尽きるのではないでしょうか。なまじ勉学が優秀だったばかりに周囲から身勝手な期待を寄せられ神経をすり減らしたハンス。型に嵌められた学校生活で垣間見た自由との接触とそれを阻む大人たちの間で擦り切れて行ったハンス。都落ちのように故郷へ帰り、しかしふるさとのどこにも寄る辺のなかったハンス。
善意なき善人たちに良いように玩ばれるだけ玩ばれた挙げ句、ボロクズのように見捨てられた憐れなハンスは、なぜこんな身も蓋もなければ神も仏もない無惨な最期を迎えねばならなかったのでしょう?
あらすじ
田舎町の俊才として大人たちの期待を一身に背負う少年ハンス・ギイベンラアトは優秀な成績で神学校へ入学し、将来の牧師または大学講師となるべくエリートコースをひた走る。しかし行き過ぎた管理教育に心身を弱らせていったハンスは奔放な悪友ハイルナアとの交流をきっかけに問題児と化して行った。
学校との度重なるトラブルとハイルナアとの唐突な別れに心身をすり減らしたハンスは故郷へ戻り機械工の徒弟として働くのだが、大人たちの期待を裏切った「もと神童」に安住できる場所はなかった。ある週末の夜、機械工仲間と酒を飲み歩いたハンスは川面に浮かんだ姿で発見されたのだった・・・。
公衆便所ハンス
さて、過激な文言を使用して恐縮だけれど、「他人の身体を使ったオナニーをセックスと勘違いするヤツがいるごとく、他人を通じて自分を愛することを愛と錯覚するヤツがいる」というのは私の人生訓の一つです。全編通じて胸糞悪さで満ち満ちている本作において、最悪のおぞましさを呈しているのは俊才ハンス少年に対する周囲の身勝手な感情の描写ではないでしょうか。
父、教師、牧師その他諸々、ハンスを取り巻く大人たちは揃いも揃って善意なき善人、つまるところ俗物ばかりです。他者と関わらぬ人畜無害な俗物ならば、それは当人たちのご勝手ですが、彼らは教育の名の下に少年の精神形成や人生行路に影響を及ぼし得る力を持った俗物であったのが少年の運の尽きでした。
彼らはハンスを田舎者たる自分たちの誇りとなり得る器としか考えず、彼の父もまた息子の立身出世を望み、そのやる気を絞り出すためには言葉を惜しまぬがカネは一文たりとも出したくないという”あわよくば”のスケベ根性の持ち主でありました。そんな彼らが親切ごかしにハンス少年の心を蝕み圧迫して行く様はまるで小児性愛者たちによる性犯罪を見せられているかのごときおぞましさに満ちています。
本作きっての良心的登場人物たる敬虔なキリスト者、靴屋のフライク親方にしても、その”犯行”を知りつつ憐みの目で眺めるだけの無力な善人に過ぎない。そして行動を伴わない善意を見て見ぬふりと言うのです。
「あそこを紳士がたが何人か歩いていますがね、」とかれは小声で言った。「あの連中も、この子をこんな目にあわせるのに手をかしたわけですよ。」
「なんだって?」と相手ははっとして、うたがわしそうに、おどろいたように、靴屋をじっと見つめた。「いや、冗談じゃない。それはどういうわけだね。」
「心配なさることはありませんよ、おとなりの旦那。わたしは学校の先生がたのことを、要っただけでさあ。」
「なぜだね。どういう意味かね。」
「なに、別になんでもありません。それにあなたとわたしも、この子に対していろいろと手ぬかりがあったのでしょうね。そうは思いませんか。」
ハンス少年はなまじ才覚に恵まれていたために、周囲のマダオ(=まるでダメなおっさんの意)たちの偽善と欲望の餌食となってしまったのでしょう。
ハンスの居場所
などと言ってたって仕方ない。物語の内容や登場人物たちの所業を”ジャッジメント”していたんぢゃあ物語を味わう意味も資格もないし、まずもってツマラナイ。人間の醜い剥き出しの名誉欲を前にしては、もっとも崇高であるはずの宗教心ですら無力だということなのでしょう。ともあれ大人たちの期待に応えんがために奮闘するハンスの心身は日に日に衰えて行き、その末期にはこの有様。
やがてわれにかえるたびに、かれはなんだか、頭の内側がどこもかしこも傷ついているような感じがした。そしてかれの顔が、思わず知らずゆがんであきらめと罪の意識とをあらわす、あのねむそうな微笑をうかべるたびに、かれはたちまち校長の声を聞いた。―「そのばかげたにやにや笑いは、なんの意味だ。きみはまったく、こうなってもまだにやにや笑う必要があるんだね。」
いったい何があったらハンスを救う事が出来たのでしょうか? 故郷でも進学先でも善意なき善人たちの思惑に翻弄された挙げ句、子供として最も痛ましい表情の一つである「迎合の愛想笑い」を浮かべるまでに立ち至ってしまったハンスを救い得たものは何かあったのだろうか?
あ、いや待てよ一つある。いや、あり得た。ハンスの短い人生行路にほとんど影を落としていない母親の情愛 ―つまり彼をとりあえず無条件で受け容れてやれるなにか― です。心神耗弱を理由に故郷へ「都落ち」したハンスはかつての幼年時代を懐かしみつつ、幼馴染の少女と恋に落ちますが、その描写は少年の恋心で片付けてしまうにはあまりにも切実で痛々しい。
かの女はもう一度かれの手をとると、それを冗談に自分のコルセットのしたへ押しこんだ。そこで他人の生命の脈動と呼吸を、はげしく、ちかぢかと感じとったかれは、心臓の鼓動のとまる思いだった。そして死ぬほかはないような気がした。それほど息が苦しくなったのである。
かれは家にもどって、自分の部屋にたどりついて、身をよこたえると、すぐにねいった―夢のなかで、深みから深みへと、巨大な空間をよこぎって、突進しながら。まよなかごろ、かれは苦しい、ぐったりした気持ちで目をさまして、朝がたまで、半眠半醒のまま、心をかげらせるようなあこがれにみたされ、制御しきれぬ力にこづきまわされながら、よこになっていたが、ようやくしらじら明けに、苦悩と窮迫のすべてが、長い涕泣となってほとばしり出て、かれは涙にぬれたふとんのうえで、もう一度ねむりこんだのであった。
どうでしょう? これは異性への思慕というよりは、彼の人生にほとんど存在しなかったに等しい母性への憧れの発露と思えないでしょうか? しかし彼の憧れが成就することはなかった。ハンスを受け容れ得たかもしれない最後の存在もまた、その真意は謎とはいえ彼の前から消え去ってしまいます。
結局ハンスの行き着いた道は機械工見習いとして生きる道でしたが、そこもまた母性的なるものなど薬にしたくともない野蛮な男性性の支配する場所だった。週末には徒党を組み、蛮声をあげて虚勢を張り、女給をこき使って酒を浴びるように飲むことをこと「男らしさ」と心得る者たちの集団に、ただでさえ繊細であるに加え、心に傷を負ったばかりのハンスが馴染めないのは当然だったでしょう。
(中略)何かが、かれの心の奥底で、きりりと痛んだ。そしておぼろげな観念と追憶、羞恥と自責との、にごった流れが、かれのうえにおちかかってきた。かれは大きなうめき声を立てると、すすり泣きながら、草のなかへ倒れた。
そして物語は唐突なハンスの水死によって幕を閉じます。しかし苦悩に満ちた短い人生を送った少年の報われぬ最期を物語るはずの筆致はなんとやさしく、静かで、美しいのだでしょう。仮にも物語の主人公の、しかも年端も行かぬ少年の死を描いた情景であるにもかかわらず、これほど安らかな気持ちにさせられるのはどういうわけでしょう?
それと同じころ、こんなふうにおびやかされていたハンスが、すでにつめたく無言で、ゆっくりと、くらい河のなかを、谷のしも手のほうへ、流されていた。むかつきとなやみは、かれから取り去られて、かれのくろぐろとただよってゆく、やせこけた肉体を、つめたい、ほの青い秋の夜が見おろしていた。かれの手と髪と、色のあせたくちびるには、黒い水がたわむれていた。だれもかれを見た者はなかった。見たとすれば、夜あけ前にえさをさがしに出る。臆病なかわうそだったかもしれない。かわうそはずるそうにかれをちらっと見て、音も立てずに、かれのそばをするりととおって行ったのである。かれがどうして水に落ちたのか、それも知る者がなかった。おそらく道にまよって、急傾斜の個所で足をふみすべらしたのだろう。水をのもうとして、バランスを失なったのかもしれない。あるいは美しい水のながめに誘惑されて、そのうえに身をかがめたのかもしれない。そして夜と月のほのじろさが、いかにも平和と深い休息にみちみちて、かれのほうをながめていたために、疲れと不安が、しずかな強制力で、かれを死の影のなかへかり立てたのであろう。
ハンス・ギイベンラアトはなぜ死んだ? 再び
こんな一文を読まされたんじゃあ仕方がない。それに先立って知的エリート階級の浅ましい名誉欲やら下層階級の浅ましい乱痴気騒ぎやらを読まされた身としては、むしろ自然に抱かれながらオフィーリアのごとく川面を流れ下って行くハンスの死に様に爽快さすら感じてしまいはしないでしょうか?
きっとハンスは「死んだ」のではなく「自然へ還った」のです。硬直した愚かな知的エリートにも、蒙昧で愚かなブルジョアにも、野蛮で愚かなプロレタリアートにも居場所を見出せなかったハンスの魂は、まぼろしに過ぎなかった母性に代わって、すべてを受け容れる大自然のふところへと還って行ったのでしょう。善意なき善人たちの欲望に翻弄される前、彼が純粋な愉しみを見出していた釣りに励んだ川の流れに乗って・・・
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