『はじめに』〈もと本嫌いが読書ブログなどする理由〉

自己紹介

読書ブログなど立ち上げておいて難ですが、私には文学的素養も無ければ体系的に何かを語れるほどの知識もない。まともな国語教育すら受けているとは言い難い。だいたい人生の三分の一ほどを大の「本嫌い」として過ごしてきたような人間です。

ではなぜそんな奴が読書ブログなどやっているのかと言えば、それには以下のような理由があるのです。

本嫌いが本より嫌いなもの

本を読むヤツなんでエイリアンだと思っていました。まともな読書経験がないのはもちろん漫画のセリフすら飛ばし読みするほど本が嫌いでしたが、私はそれ以上に人が嫌いでした。

人の顔を見るのも嫌。
人の声を聞くのも嫌。

「筋金入り」の子供時代を送った私は流れるように不登校&引きこもりの道へと滑り込みます。世界の隅っこで自分とは関係ない人々をながめていた私はひょんなことから本に触れ、そして世界が開けました。

かつて不可解だった文字の羅列は、世界への違和感と生きづらさを「昇華」という形で世界に叩きつけた人々の生きた証なのではないか?

そう思いついた私は理解できようができまいがお構いなしに様々な本を読み散らかしました。

やがて本は自分や他者や世界に対する「ぼんやりとした不安」から私を守ってくれ、立ち向かう力を貸してくれ、一緒に笑い飛ばしてくれる心強い味方となったのでした。

この「もと本嫌い」は、いまでもはっきり言って本を読むのはめんどくさいと思っています。

しかしこの「もと本嫌い」は、本を読むよりもめんどくさく、また本を読むよりも好きになれそうもないものたちと、本を読むことを通じて向き合えているような気がしています。「あなたのマイナスの経験は、表現する側になればプラスの経験に変わる」という言葉を聞いたことがあります。これは表現を受け取る側も同様だと確信しています。

ブログやTwitter、YouTubeなど様々な媒体を使って読んだ本の感想や考察を書き留めています。周囲に本好きのいない悲しさ、少しでも自分の頭の中に浮かんだ事々を書き残しておきたい、あわよくば誰かの目に留まればいいと思いながら。

浜の真砂は尽きるとも・・・

そんな私が一冊の本を通して抱いた思いや考えは、まっとうな文学教育を受けた人々には思いもよらない曲解や誤読と映ることでしょう。そのことに対する恥はもちろんあります。しかし思えばある本に対する「まっとうな解釈や読み解き」というものはネット検索すれば相応の答えが返って来るこのご時世、非正統的で個人的な「見立て」を綴る私のようなスタンスがあってもいいのではないかと開き直ってもいます。

 浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ

とは、天下の大泥棒石川五右衛門の辞世の句。「数えきれない浜辺の砂がすべてなくなろうとも生きるため、または欲望を満たすために盗みを働く人間はなくならない」というのが私の見立てですが、これと同じく自分の心を充たすため、または慰めるために一冊の書物、または一編の物語、または一人の作家から糧を得たいと望む人間はなくならないと思います。

「砂の真砂は尽きるとも世に読み解きの種は尽きまじ」

これが今では私のモットーとなっています。無学無教養な非正統派であるにも関わらず本に対して声を出していることの申し訳なさと開き直りを胸に。

かつての私のよう人に対して、世間に対して、なによりも自分に対して、ぼんやりした不安を抱えている人の心の琴線に触れる文章が書けたら、本当はいちばん嬉しい。

「読書」や「ブンガク」に興味があるけどなんだか敷居が高くて近寄りがたいと思っている人に、「なんだ、本を読むってこんな気楽なことなのか」と思ってもらえる文章が書けても、嬉しい。

すでに読書やブンガクに対して一家言も二家言もあるツワモノさんに「ああ、こんな変な野郎もいるのかwww」と鼻で嗤われるのも、また面白い。

不愉快な思いをさせたら、または「普通じゃねーか」と思わせたら、それはごめんなさい。

というわけで本が好きな方もそれほどでもない方も、よろしくお願い致します。

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