仏陀と同じ名を持つ男シッダールタのこころの遍歴を描く物語。
悟りを目指し、覚者仏陀の言葉に打たれたシッダールタ。しかし彼は仏陀の弟子とはならず、ひとり己の道を進むことを決心します。
いったいなぜ?
頭で知ることと心で知ること。
偉大な人物であることを百も承知の仏陀のもとを去るシッダールタが必要としていたものは、その思想や言葉による導きではなく、彼が悟りに至るまでの体験と思索の過程だったのでしょう。
宗教や哲学、文学という人間の内面を探る学問には答えというものが無いからこそ面白いとはいえ、だからこそ誰も彼もが好き勝手なことを言えてしいます。だからどれほど素晴らしい言説や思想に触れたところで、結局は自分の足で泥臭く愚かしく、歩き続けて「答えらしきもの」にたどり着くほかはないのだと思うのです。
ブッダの弟子たちが安易な道を選んだと言っているのではありません。ただ、どれほど素晴らしいことであっても「頭で理解する」だけでは足りず、たとえどれほど遠回りであっても「心で理解する」までは納得できないという人がいるのです。答えはここにあるのだろう。導いてくれる者もいるだろう。しかし自分はこの答えに自分の足で歩いて赴きたいのだ、と。
無教養な私は仏陀が安逸と禁欲を経験し、それらの無為を悟って涅槃に達したらしいという物事の輪郭しか知りません。
だから知ったようなことは言えませんが、シッダールタが禁欲的生活を送ってその無為を知り、安逸の生活を送ってその無為を知って行ったのは仏陀の軌跡と二重写しになるものなのだと思います。
いや、「無為を知って行く」のではないでしょう。
それらを通して、「人としてのあらゆる喜怒哀楽を体験して行った」のでしょう。
俗世に塗れた生き方を軽蔑することは簡単であり、またそれらを軽蔑して無味乾燥な日々を送る人々を軽蔑することも簡単でしょう。得々と双方の欠点をあげつらい、言葉でやりこめる人を見出すことも、または己の内に見出すことも簡単にできるでしょう。
問題は自分も含めたそのような人々に、軽蔑すべき人々がまとい、彼らを翻弄している「俗臭」を軽蔑できるだけの根拠があるのか否かではないでしょうか。私は、自分自身を含めてそのような人を見たことがないのです。
ほんとうは欲得に塗れた生き方にも、それらから超然とした生き方にも、学ぶべきものや尊ぶべきものがあるにも関わらず、感情・言葉・思想による予断によって、それらを軽蔑して澄ましているのではないでしょうか?
つまり、ほんとうは誰も、自分が軽蔑する物事や人についてなにも知ってはいないのです。
シッダールタは遊女との愛欲の日々を、商人としての欲得ずくの日々を、賭博者としての浅はかな日々を、のちには息子を甘やかす愚かな父としての日々を送って行きます、いや、知って行きます。
そして人生の終極に達したとき、世界の、人の、あるがままを受け入れ愛するこころに到達するのです。
「世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は大いに罪を必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。」
しかしその本質は他者へ伝達可能な言葉による「思想の完成」ではなく、「こころの底からの納得」という形によっています。
「ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にいくらか違ってくる、いく、かすりかえられ、いくらか愚かしくなる。—そうだ、それも大いによく、大いに私の意にかなう。ある人の宝であり知恵であるものが、ほかの人にとっては常に痴愚のように聞こえるということにも、私は大いに同感だ」
私たちは、自分が軽蔑しているもの、あるいは崇め奉っているものについて、果たしてどれほど自分の頭で考え、自分の足で歩き尽くしていると言えるのでしょうか?
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