芥川龍之介の小説には「切支丹もの」と呼ばれる、キリスト教を信仰する人々を描いた作品群があるようです。「宗教」と聞けば「胡散臭い」という木霊を返すことの多い私たち日本人ですが、本当に私たちは「宗教」と無縁の存在なのでしょうか?
私の考えは断じてNOです。しかしなにも今からここで「私の信じる神様のお話」をしようというのではありません。私たちは結局のところ「家族」や「仲間」、「お金」や「職業」や「信念」などという名前の「宗教」にからめとられて平然としていると思っているからです。この物語の正統的な解釈はさておき、私は本作を読んで、そんな「宗教」から逃れえない人間の業を見る思いがしたのでした。
あらすじ1:私はおん教えを捨てました
物語の舞台となるのはキリシタン弾圧政策が過酷を極めた17世紀の長崎。身寄りをなくした少女おぎんはキリシタンの夫婦に引き取られて洗礼を受け、幸福な生活を送っていましたが、ある日役人たちによって囚われてしまいます。
度重なる脅迫や拷問、甘言にも屈することなく教えを捨てることを拒否するおぎん一家に業を煮やした役人は、ついに一家を生きながらの火あぶりに処すことにします。それでもおぎんたちは恐れません。なにせ教えを守って死ぬのは彼らが最も尊ぶ「殉教」であり、苦しんで死んだとしても天国(はらいそ=パラダイス)での生活が約束されているのですから。
しかし刑場に引き出され、まさに火がつけられんとしたその時、おぎんの口から信じがたい言葉が飛び出したのでした。
私はおん教えを捨てました。
その一言に見物に訪れた群衆はざわめき、養父母は困惑し憤ることになります。いったいおぎんの心にどんな変化が起きたというのでしょう?
あらすじ2:みんな悪魔にさらわれませう!
おぎんが教えを捨てたのは死を恐れたからではありませんでした。おぎんが恐れたのは刑場から見えた墓場に眠る、異教徒として死んだために今では地獄(いんへるの=インフェルノ)にいるであろう実の両親を見捨てることだったのです。未だ幼い少女であるおぎんにとって最も大切なのは”すべての父”である神よりも、自分を生み育ててくれた両親であったのでした。
おぎんの心情を知った養父母はそれぞれの心と向き合うことを余儀なくされます。養母であるおすみはおぎんの心情を思って涙に暮れ、養父孫七は怒りに震えますが、最終的にはなんと両者ともキリスト教の教えを捨てることとなります。いったい彼らの心に何が起こったのでしょうか?
養母おすみはおぎんの肉親への情愛に打たれて涙しました。そして転向者への同情を厳しく諫める夫孫七に対して自らの思いの丈を告白します。私は決しておぎんのように教えを捨てるつもりはない。しかしそれは、ただ夫であるあなたの供をするためなのだ、と。
けれどもそれははらいそへ参りたいからではございません。唯あなたの、ーあなたのお供を致すのでございます。
おすみが教えを奉じて死ぬのは信仰のためではなく、従うべき夫への義務または愛する夫への愛情のためだったのでした。
おぎんに次いで妻からも思わぬ真意を告げられた孫七は、そんな妻と娘を見捨てて自分だけでも殉教を遂げると息巻きます。
天主のおん教えを捨てたければ、勝手にお前だけ捨てるが好い。おれは一人でも焼け死んで見せるぞ。
しかし孫七の心は千々に乱れます。正しいキリスト者として殉教するのが自分の務めである、しかしそのために妻と子を捨てて自分だけがはらいそへ行くことに意味はあるのか? まさにおぎんと同じ葛藤に悶える孫七は、そんな自分を見つめるおぎんの眼差しに大きく打たれることになります。
この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心である。
「えわ」とは創世記に登場する最初の人間アダムとイブの「イブ」のことであり、「えわの子供」とは原罪を背負った不完全な存在である私たち人間のことを指すようです。
そしておぎんの叫びが孫七の心を揺さぶります。
お父様、いんへるのへ参りませう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、ーみんな悪魔にさらわれませう!
孫七はついに教えを捨てることを決意し、一家は「もっとも恥ずべき棄教者」として記録された、とのことです。
名もなき「神」たち
さて、皆さんはこの物語はどう読むのでしょう。人間にとってもっとも大切なのは宗教を信じることではなく家族を愛することだという美談でしょうか? それとも人間は信仰や信念を貫くことのできない弱い存在であるという醜聞でしょうか? 私は本作を、人間が人間である以上どうしても逆らうことのできない「宗教」に絡めとられてゆく人間の業を描いた物語であると感じました。「宗教」という言葉を辞書では、
経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味や価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。
大辞林より引用
と定義しており、またイギリスの文明批評家マシュー・アーノルドは「宗教とは情緒によって感動されたる道徳である」という旨の言葉を残しているそうです。つまり「宗教」という言葉・概念には私が冒頭で述べたように「神」や「仏」への信仰に留まらない、もっと大きく、深く、広い意味合いがあるのではないでしょうか?
例えば「信仰」という言葉とは縁遠い私たちも「家族への愛情」や「仕事への情熱」「好きなものへの愛着やこだわり」といった言葉には親近感を感じます。しかしそのどれをとってもそれらへの愛を客観的な言葉で説明することは難しいのではないでしょうか?
「あなたはなぜ家族なんか大切にしてるんですか?」
あなたはこう問われたとしたら理路整然と答えることができるでしょうか? 多くの人々はそもそもそんな質問を投げかけられることすら予期しておらず、むしろ家族への愛情などという当たり前の感覚を理解できない相手への違和感を覚えるかもしれません。そしてその違和感は特定の宗教を信仰している人々にとっても同様のものであると思います。つまり理屈や損得勘定抜きで当たり前のものとして大切にしているものすべてがその人にとっての「宗教」と呼ぶことができるのではないでしょうか?
ならば神への信仰も、家族への愛情も、ともに「宗教」と呼んで差し支えないものなのではないでしょうか。死を前にしたおぎんたちが見つめることを迫られたものの正体は、信仰と愛情というふたつの異なる性質の「宗教」または「神」への葛藤だったのではないでしょうか。
大きな宗教/小さな宗教
「神仏への信仰」と「個人的な愛情」。私はこの二つを「大きな宗教」と「小さな宗教」と呼びならわしています。神仏への信仰は本人の気持ちがまじめでさえあれば基本的に拒否されることなく、何人も受け入れてもらえるものでしょう。そしてどうしても心の折り合いがつかなくなれば捨て去ることも可能です。これは神仏への信仰に留まらず、特定の国家や民族、主義主張にも置き換えることができるでしょう。
しかし個人的な愛情・愛着はそうはいきません。対象は独立した意思と人格を備えた他者であり、いくら自分が愛情を抱こうとも相手に拒否されればそれまでで、また対象への愛情をなくしたからといって簡単に捨て去ることもできません。これは家族や友人や恋人に留まらず、職業その他自己実現にかかわるものほとんどに置き換えることが可能でしょう。
人は常にこれら「大きな宗教」と「小さな宗教」の間でバランスを取りながら生きてはいないでしょうか? そして時に片方を大切にするために、もう片方を犠牲にしてはいないでしょうか? それが良い悪いということではなく、その時々に応じて人は心を傾けつつ生きて行かざるを得ないのではないでしょうか? それこそが不完全であることを運命づけられた「えわの子供」である私たちの心のありようなのではないでしょうか?
おぎんは死を恐れませんでしたが実の両親を見捨てて自分だけが天国に行くことに耐えられず神への信仰を捨てました。いや、そもそも天国や地獄といったキリスト教の概念を信じ続けているのだから厳密には「棄教」ですらないのではないでしょうか? おぎんはただ「大きな宗教」よりも「小さな宗教」のほうにより心を大きく傾けたに過ぎないのです。
ではおすみはどうなのか。彼女がそもそもキリスト教という「大きな宗教」を信仰していたのは従うべき、または愛する夫とともに生きるためであり、その根底には「小さな宗教」があったことが明らかです。
そして孫七は? 彼は葛藤の果てにかろうじてキリスト者としての殉教を選ぼうとしますが、おぎんの目に宿った”「えわの子供」の心”を見ることでついに棄教を決意します。神への信仰よりも家族への愛情という「小さな宗教」を選んだ孫七の心は、「えわの子供」たる人間としてごく自然なものであったように思います。
愛かエゴイズムか? おぎんの純情
やはりこれは美談なのでしょうか? どうもそう簡単に割り切ってしまうには本作の幕切れは清々しいものではありません。物語の終わりにおぎん一家の醜聞は世に「もっとも恥づべき躓き」として記録されたと伝え、悪魔が歓喜して大きな本に化けて飛び回ったと記されます。ここにある「大きな本」とは「The book of book」=聖書を表すと思われ、それが代表する正統的な教えに従うならばおぎんたちの棄教は恥ずべき躓きに間違いないでしょう。しかし最後の最後には、
これもさう無性に喜ぶ程、悪魔の成功だつたかどうか、作者は甚だ懐疑的である。
と記されて物語は終わります。この一句は作者からの読者に対する問いかけであるように思います。この物語から読み取れるのは人の心の美しさなのか、醜さなのか、不確かさなのか? おぎんたちと同じく「愛すべきもの」と「愛したいもの」、「すべきこと」と「したいこと」の板挟みに苦しむとき、あなたならばどうするだろうか? そのように問いかけられている気がしてならないのでした。
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